#128「HOWLING」
狼の遠吠えが夜を駆け抜ける。
冬の衣と木陰の闇。
魔物さえ巣食う暗黒の森。
獰猛な捕食者であり優れた狩猟者。
大狼ダイアウルフの鳴音は、森を識るモノにとって緊張の一瞬だ。
なぜなら、彼らがその唄声を空へと響かせる時。
それは決まって、縄張り争いのための
強靭な四肢と、鋭い鉤爪。
時に
群れで活動し、複数匹で獲物を追い立て、精神的にも長いプレッシャーを与えて行う、彼らの狩りは執念深い。
通常の狼に比べて、カラダも大きく。
万が一、体当たりなどされようものなら、たちまちのうちに覆いかぶさられて、喉元を噛み千切られる。
……ダイアウルフに一度でも遭遇し、運良く生命を拾ったモノなら、誰だって考えるコトは同じだ。
すなわち、〝二度目は避けたい〟
だが、その晩は少し様子が違った。
銀冬菩提樹と丸酸塊の森。
昔からこの森に棲息している、最も大きな群れの縄張りにて。
彼らはその晩、珍しくも窮地に立たされていた。
警戒、戸惑い、恐怖、怒り。
縄張りを侵入し、
いつもなら仲間と協力し、すぐに撃退を開始する。
しかし、彼らは
『悪臭』
二つ足で歩む奇怪な狼。
痩せ細り、ふらつき、はじめは怪我をしているのかと思った。
だが違う。
ポトポトと滴り落ちる腐った黒血。
生臭い毛皮から、ドロドロと溢れ落ちる狼のものではない赤い肉塊。
加えて、全身からジャラジャラと、不快な音を擦り鳴らして地面へ引きずられる鋼鉄の硬質音。
ダイアウルフたちは人語を解さないが、人間の扱う道具について学習はしている。
森には時折り、
それが人間の匂いを残し、人間の手で置かれた罠であるコトも、彼らは疾うの昔に見抜いていた。
ゆえに、困惑と警戒。
なのに、それは怪我ではなかった。
血と肉塊と毛皮のドロそのものは、ただの〝
「ああ……痛ぇ、痛ぇ……」
不要なドロを脱ぎ去って、正体不明の
狼であって、狼でない。
ダイアウルフたちにもし知識があれば、
けれど、彼らは〝森を彷徨い歩くモノ〟や、〝森のカミ〟は識っていても、自分たちによく似た狼の魔物が、この世にいるなんて……それまで想像もしてこなかった。
当然である。
彼らの魂は澄んでいる。
魔物へ堕ちる第八の法則など、気高きダイアウルフには無縁の話。
だからこそ、悲劇だった。
その人狼が、ただの人狼であれば。
銀冬菩提樹と丸酸塊の森のダイアウルフ。
彼らの魂は、魔物の毒牙にはかからず、いつまでも本来の輝きを保っていられただろう。
月の光の雫のように。
名刀の描く曲線のように。
清らかに澄んだ狼の魂は、気高く美しかったからこそ、人狼が放った強烈な『悪』の波動に、瞬く間に染められてしまった。
端的に云えば、人狼のカラダから滲み出る赤い魔力にアテられて、その世界観の支配下に置かれてしまったのだ。
人狼は大魔だった。
ゆえに、ダイアウルフたちは発狂した。
悪しき心に導かれ、彼らはもはや森を荒らす害獣そのもの。
……そんな〝豹変〟を、人狼は胡乱な目つきで見下ろしながら、やがてクツクツと肩を揺らす。
「いい森だなァ……使える手駒が、こんなにいるのか……」
耳元まで避けた口の端。
不潔な乱杭歯を、べロリと舌で舐め回して、人狼が嗤う。
首に嵌められた鉄枷。
肩に打たれた鉄の杭。
黒い毛皮のあちこちには、肌に直接縫い込まれた鉄鎖が何本も繋がっている。
ジャラジャラとジャラジャラと。
鎖の量があまりに多すぎるため、まるで鎖が体毛のようでもあった。
背中には、折れた剣や壊れた槍、矢などが、幾つも突き刺さっている。
──異様だ。異様で病的だ。
そこに、
「やあ、鉄鎖。相変わらず、君は痛々しいね」
「……月の瞳」
人狼の前に、新たな魔物が登場した。
藍鉄色のクラシカルブラウス。
フリルが特徴的なホワイトジャボ。
首から下は人間の女のようだが、豊かな銀髪に隠された顔の右半分。
髪の隙間から漏れ出る翠碧の霧に混ざり込んで、幾つもの泡が弾けては消える。
──否、それは泡ではない。
眼。
無数の、眼。
人ならざる怪物のまなこ。
人狼は不快げに唸った。
「オレをその……気色の悪ぃ眼で、視てんじゃねぇ……ッ!」
「おっと、すまないね。だが、許してくれたまえ。これは私であって、私じゃないんだ。自由にコントロールはできない」
「だったら消えろォ! 目障りなんだよ!」
「……ふむ。君ほどの大魔であれば、さほど負担にはならないと思っていたが、過大評価だったかな?」
「──」
人狼が無言で月の瞳に殴りかかった。
しかし、月の瞳は人狼よりも早くにその位置を動き、攻撃を躱す。
凶悪な爪は、掠りさえしない。
「……クソが」
「やめよう。気に障ったなら謝る。私は別に、君と争いたくて声をかけたワケではないんだ」
淡々とした皺がれ声。
月の瞳に動揺は一切なかった。
本物の殺意をぶつけられ、なおも平静を保つ剛毅な性格?
そうではない。
月の瞳には初めから、人狼の攻撃が視えていた。
悪魔の脳髄、深淵の叡智。
無数のまなこが弓なりに弧を描き、人狼を嘲笑う。
──無論、人狼はこんな挑発を受けて、黙っていられるような性質ではない。
ギリリと歯軋りを鳴らし、それならばそれで、本気で排除するまでだと。
息を吸い込み、呪文を唱えようとした。
が、
「
「ッッッ……!」
続けられた一言に、ガチリと歯を噛み合わせて、呪文を喉奥へと封じ込む。
人狼にとって、それは自身の苛立ちを解消するコトよりも、遥かに大事な信条。
たとえ己の全存在力を費やしたとしても、絶対に成し遂げたい目的だった。
月の瞳は悪魔のように言う。
「願いを叶える方法はある。以前も言っただろう?」
「……秘文字の奇蹟」
「そう。世界神の権能があれば、どんな願いも思いのままだ」
リンデンには、それが眠っている。
私は尼僧の
「ただし、封印は厳重で、守りは堅いだろう。どこに隠されているかも分からない。
探している内に存在が気取られれば、刻印騎士団……憤怒の英雄だって現れるかもしれない」
「だから、オレなんだろうが」
「そうだ。君であれば、人界にうまく紛れ込むコトができる」
人狼は殺した人間の、生皮を被るコトでその人間に化けられる。
化けた人狼は、秘宝匠の聖具すら騙す天性のプリテンダーだ。
ゆえに。
「エリヌッナデルクを生き残った古き闇の眷属よ。
君が王の復活を望み、眠りについた闇の公子を、再び地上に呼び戻したいなら──必ずエル・ヌメノスの尼僧の墓所を暴き出せ」
「言われなくとも、やってやらァ……ッ!」
HOWLING
銀冬菩提樹と丸酸塊の森に、それは数日ほど前の晩。
リンデンには今、人狼の悪意が息を潜めて、動き出しているのだった……
────────────
tips:人狼
人から転じた魔。
魔物の中では、吸血鬼に並びポピュラーな存在。
殺した人間の生皮を被るコトで、その人間に化ける能力を持つ。
ただし、生皮は満月の夜に必ずボロボロになるため、変身できていられるのはあくまで一時的。
銀が弱点。
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