#092「宮殿の天井画」
タン、タン、タン。
一歩を踏み出すごとに聞こえる足音が変わった。
磨き抜かれた大理石。
どこまでも吸い込まれてしまいそうな漆黒の床。
扉を通り抜ける前と後とでは、明確に音の響きが違う。
それだけじゃない。
壁も天井も、見事なまでの彫刻細工が施されている。
しかし、一段と目を見張るのは、精緻を凝らし尽くして描かれている天井画だろう。
まるでヴェルサイユ宮殿のようだ。
(──もっとも)
ヴェルサイユ宮殿ほどの綺羅綺羅しさ。
人の心を晴れやかにする明るさ、光と輝きは皆無と言っていい。
ここにあるのは黒。
どこまでも暗い夜の陰影。
天井に描かれている立派な絵画たちも、暖色系はひとつもなかった。
暖かな明かりがあるとすれば、それは空中を浮遊するシャンデリアの発光。
金と銀に揺れる炎の揺らめきだけ。
「……このあたりは、窓が無いんですね」
「え? ああ、窓ですか。たしかにそうですね」
「外の明かりを入れないようにしてるのは、何か理由があるんですか?」
「理由、というと定かではありませんが……たぶん明かりというより、風を嫌ったんだと思いますね」
「風?」
「ほら、天井の絵ですよ。こういうものは、風に晒されると劣化が早くなりますから」
ナハトはツ、と頭上を見上げ、指をさしながら説明を開始する。
「かつてダークエルフは、〈
視線を上げると、年代記のような構成で絵が続いているのが分かる。
始まりは荒涼とした寂寞の地。
薄暗な世界。
けれどそこは、寒々しいがたしかに平穏でもあった。
夜の風から生まれたとされるダークエルフは、月の神殿に暮らす〝
北の
「けれど」
「──
「ええ、そうですね」
続く二枚目の絵で、〈
巨大彗星の衝突による未曾有の大災害。
砕け散った円環帯の破片が、エルノスの地へ降り注ぐ。
『壊れた渾天儀世界』でも読み知っている通りの内容だ。
だが、
「〈
世界の法則が入り乱れ、秩序が混沌に呑まれた時代。
ダークエルフはその外見と習俗から、邪悪な種族という偏見に晒され各地で迫害される。
言ってしまえば、魔物と同列視されたことが原因で。
「人々は闇を恐れました。我々のように夜に近しい
やがて居場所を失ったダークエルフは、ついにはここ
事実、多くのものに追われてこの地へ転がり込んだのだろう。
この頃の話は、トルネインからも聞かされた。
「屈辱と困難に満ち満ちた時代ですね。ですが」
ナハトは滔々と語り、歩みを進めて次なる天井画を仰ぐ。
そこには一人の若者が右手に炎を携え、左手で大剣を錫杖のように掲げ、民衆から王冠を授けられている光景が記されていた。
「苦境にあえぐ同胞を救うため、ダークエルフのなかから、ひとりの
「アダマスの初代王、ですね」
「はい。僕の御先祖さまです」
「そして、古代においてはセプテントリア王国の国父でもある、と」
天井画は厳かに、けれど歓喜に包まれ。
偉大な王が誕生したことで、数多の民衆が繁栄を手にしたことを伝えていた。
北方大陸を統一した史上で唯一の王国。
多数の種族が手を取り合い、奇跡のような希望で結ばれていた栄光の時代。
しかし……
「──とまぁ、こんな感じで」
ナハトがパン、と両手を合わせて視線を元の位置に戻す。
「種族の歴史と王家の偉業。これらが一目で分かるよう意図されて作られたのが、ここの天井なんですけど……ご覧の通り、絵はわざと〝虫食い〟の状態になっています」
わずかに曇る
少年はそこで、せせら笑うような様子を垣間見せた。
その詳細な心の
天井画には、セプテントリア王国滅亡からメラネルガリア建国までの〝間〟が無かった。
不自然に空いた黒塗りの空白は、よく見れば後から補修をしたような形跡も見られる。
「これは?」
「為政者の欺瞞なのでしょう」
ナハトは肩を落とし、深々と息を吐いた。
「種族の歴史と王家の偉業。陛下は御自らそう注文なさったらしいのですが、画家があまりに完璧に天井画を仕上げてくると、我をも失うほどに激昂したそうです」
「激昂ですか」
「はい。曰く、偉大なるアダマスの王宮に、忌まわしき過去を写してはならない」
セプテントリア王国は滅亡した。
ダークエルフの王は滅びを回避できなかった。
ならばそれは、恥ずべき汚点。
歴史家たちは語るだろう。
史上で最も偉大な王国を築き、史上で最も偉大な王国を滅びに追いやった。
それこそがダークエルフ。
「後継を謳うメラネルガリアとしては、あまり語り継がせたくはない歴史事実です」
「なるほど。だから、為政者の欺瞞ですか」
(道理で苦虫を噛み潰したように語る)
潔癖症のナハトとしては、この手の虚飾は受け入れにくいものとして映ってしまうんだろう。
嘘=悪という図式が、脳髄の奥まで根付いていそうだ。
(俺はどっちかっていうと、分からないでもないけどな)
少し話の向きは変わるかもしれないが、要はナポレオンの肖像画と同じ類いの話だと思う。
サン=ベルナール峠を超えるボナパルト。
あれもまた、実際のナポレオン本人に比べれば、遥かに美化されて描かれていたらしいし。
そういう心理は誰しもに共通するはずだ。
だから、
「幻滅……しましたか?」
「……幻滅?」
ナハトの質問には、かぶりを振って否と答えた。
「別に幻滅なんかしてませんよ」
「本当に? 王族といっても、所詮はこの程度の器しか持たない。今の話は、そう思われても仕方のない話だったと思いますが」
「また卑屈なことを言いますね……」
「だって、そうでしょう? 歴史は変わらない。事実は明らかに残されている。それなのに、見たくないものから視線を逸らして、蓋をして無かったコトにするだなんて……」
ましてそれを、他者にまで強制する。
そんなのはバカみたいだ。
ナハトは声には出さず、唇の動きだけでそう語った。
俺は少々呆れの気持ちが膨らんでくる。
と同時に、この王太子は今まで、こういった不満や鬱屈を誰にも打ち明けられなかったのか? と眉間に皺が寄った。
とはいえ、ここで必要以上に寄り添う──擦り寄るような真似も、かえって失望を招きかねない。
俺は話を切り上げてしまうことに決めた。
「殿下、ここは何処です?」
「え?」
「モルディガーン・ハガル。つまりは、王宮ですよね?」
「は、はい。そうですが」
「ということは?」
「……?」
「殿下や陛下にとっては、『家』ということです。そして家というのは、住人であればどんな模様替えをしようとも、一切自由と決められています」
「も、模様替え?」
「ええ。模様替え」
言い切る俺に、ナハトは今日一番の間の抜けた顔になる。
と思ったら、次の瞬間には真剣にこちらの言葉を吟味し、しばらくして、眉を八の字に下げながらボソリ呟いた。
「……これ、そういう話なんです?」
「さあ。とりあえず、捉え方は様々あるってところで、今のところは一段落つけとけばいいんじゃないですかね?」
「一段落……ははは。スピネル殿はやっぱり、変わっています。なんだか無性に、肩の力が抜けていってしまいました」
「肩肘張って生きていても、疲れるだけですし。嫌なほう嫌なほうにばかり視線を向けていても、いいこと無いですよ」
「まぁ……それもそうなんでしょうが」
そこで、ナハトは一瞬だけひどく憔悴した表情になった。
が、それは本当に一瞬のことで、気づいた時にはフゥ、と軽い一呼吸を挟み、ナハトはパッと気を取り直す。
俺の関心が天井画から離れていったのを声音から察したのだろう。
客を招いたホストとして、兼ねてからの約束を果たすことに意識を巻き戻したようだ。
「もうここの天井画は十分鑑賞しましたね。そろそろ本命の場所に向かいましょうか」
「あとどのくらい歩きます?」
「実はもう、差程の距離はないんです。そこの角を曲がると……ほら、あそこに昇降機があるでしょう?」
「ああ、あれですか」
「はい。あれを使ってまた上にのぼっていけば、すぐに王家の蔵書が収められた書架室に辿り着きます。その奥には、もちろん陛下の書斎も」
「おお……」
「ははは。約束の日から、ずいぶんとお待たせしてしまいましたね。今日はどうか、心ゆくまで存分に楽しんでいってください」
「無論、言われずともそのつもりです」
逸る気持ちがわずかに姿勢を前傾に倒す。
そんな微細な肉体の反応に、ナハトはクスリと、「誘った甲斐がありました」と嬉しそうに微笑んだ。
さあ──ついに待望の時。
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tips:セプテントリア王国の滅亡
ある時を切っ掛けに、渾天儀世界では激しい戦争が勃発した。
種族の垣根を越えた結束?
恒久的世界平和?
バカを言えよ愚かものども。
理想は理想であるがゆえに夢物語で終わるのだ。
人々は今も忘れない。
すべては〝████████〟──渾天儀世界全土を巻き込んだあの──
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