#063「ヴォレアス日記③」



 冬の終わりは、変わらずにやって来た。

 ヴォレアスでの暮らしは、ひどく静かになってしまった。

 だが、時の針は何も気にせず進んでいく。

 無慈悲なまでに延々に。

 長い極夜は終わった。

 空を見上げれば、本物の太陽がひょっこりと雲間から顔を出している。

 日照時間は短い。

 しかし、たしかな夏の訪れ。


 だからだろうか。


 俺は久しぶりに、ペンを取る気持ちになった。

 この日記帳は、思えばヴォレアスに来てからの俺を象徴している。

 過去のページを読み返すと、自分が最初、どれだけ無知であったかがまざまざと突き付けられた。

 だけど、それは仕方がない。

 言葉すら、話せなかったんだものな。

 幸せな愚かしさだった。

 無知であったことは、とても救いがたいのと同時に、今にして思えば、最上の幸せだったのかもと感じる。


 失った物の大切さ。


 寂寥感で立てなくなる孤独の哀しみ。

 ひとりで食卓に座っても、この頃はほとんど味が感じられない。

 なんというか、何を食べても薄味なのだ。

 味は分かっているはずなのに、不味いとも美味しいとも感じない。


 世界は褪せた。

 

 だけど、ママさん──ベアトリクスに比べれば、俺のこの一時の哀しみなど、そう大したものではないんだろう。

 あれから、この家を何日か探索して、いくつかの新事実を発見した。

 情報源は主に、台所の床下と屋根裏部屋、ケイティナのベッド私物置きになる。

 あちこち探索して、いろいろと家具を移動させたり、独りでやるのは、まあまあ大変だったが、時間をかけた分、報酬はきちんと与えられた。


 ベアトリクス──彼女はどうやら、味覚が無かったらしい。


 白嶺の魔女は子どもを攫う。

 子どもを攫い、最終的には食べる。

 アレクサンドロもたしか、そんなことを言っていた。

 どうやらその苦しみで、ベアトリクスには味覚というものが完全に無かったそうだ。

 禁忌の特性。

 攫った子どもが何らかの理由で死んでしまうと、彼女は泣きながらその骸を食んで、二度と離れ離れにならないようにと必死に願った。

 そのたびに、狂気が加速した。


 台所の床下には、実験室など無く。


 代わりにあったのは、子どもたちの墓。

 空っぽの棺と、幾度となくそれを打ち壊したような破壊の痕跡。

 食糧となる家畜の姿はどこにも見当たらず、結局、動物なんて何も飼われてなどいなかった。

 きっと、俺がこれまで食べてきたものは、すべてベアトリクスが『扉』を開けて、どこかから盗ってきたもの。

 もしかすると、屋根裏のガラクタ類と同じで、犠牲者たちがいたのかもしれない。


 何にせよ、時を戻す魔法なんて、ベアトリクスには使えなかった。


 当たり前である。

 そんな奇跡が為せるなら、彼女は最初から、子どもたちをこそ復活させていたはずで。

 何もかもは偽りであり、同時に深く哀しい幻想だった。


 味覚が無いために、彼女は料理をひどく苦手としている。


 子どもを攫って、子どもを食べるというのは、たしかに許されざる行い。

 おぞましいとも言える魔物のサガ。

 けれど、俺は彼女に与えられた料理で、一度も食べられないと思ったものが無い。

 そりゃあ時折り、あれ? 味付けを間違えたかな? と思うものはあったけれど、特段気にするほどのことではなくて。

 香草系の料理や、薬膳系の料理には多少戸惑うコトもあったかもしれないが、それにしたって、許容できないほどマズかったワケじゃない。

 大半は美味しかったし、スープなんかは大好物だった。


 努力の結晶。子を想う母の意地。


 きっと、あれは数え切れない、トライアンドエラーの果てに到達した、ひとつの誇りだ。

 なぜなら、俺の前で彼女は、自身の味覚が無いことなど、微塵もうかがわせたコトがなかったのだから。


 愛情の勝利なのだろう。


 あるいは、ケイティナの偉業か。


 生贄。

 始まりは、たしかにそうだったのかもしれない。

 けれどケイティナは、ベアトリクスを愛していた。

 ベアトリクスも、ケイティナを愛した。

 ふたりの母娘関係が、真実でなかったはずはない。

 ふたりの間には、たしかに絆が存在した。

 つまるところそれは、ケイティナが頑張って頑張って、誰に褒められずともひとり奮闘を続けて、たったひとりきりでも手にした勝利の証。


 怖かったはずだ。

 恐ろしかったはずだ。


 それでも、少女はひとりぼっちで、その恐怖と向き合い続けた。

 いったいどうすれば、そんな献身ができる……


 五千年間の奈落。


 暗黒の御伽噺とまで称される闇を、この地上で唯一、ケイティナだけがその笑顔かがやきで照らし続けた。


 だからこそ、最後に掬い上げることができたんだ。


 ──ああ、本当に凄い。


 もう、二度と、会うことはできない。

 俺はきっと、生涯この想いを抱え続けていくんだろう。

 重く、辛く、厳しく、哀しく。

 そしてそれ以上に、有り難いと。


 前を向いて。

 長生きをして。

 たくさん美味しいものを食べて。

 いつか大人になったら、いろんな国の歌を聞く。


 なんてひどい。


 この喪失は当分晴れない。

 しばらくは、痙攣ひきつけのように引き摺る。

 確信がある。


 ……だが、だとしても、約束したからにはやっていこう。


 ひぃひぃ、あたふた。

 空元気こそ、俺の得意中の得意。

 後ろ向きにはなるかもしれない。

 時には逆走だってしてしまうかも。

 ふたりが見守っていると思わなければ、今はまだ、到底前を向いて立ってなどいられない。


 それでも、いいよな?


 約束は守る。

 アレクサンドロだって、約束は守る男だった。

 あの男にできたなら、一時とはいえ弟子であった俺にもできる。たぶん。


 アイツの遺体は、丁重に燃やした。

 折れた聖剣は、墓標代わりに立てた。


 正直、感情はまだグチャグチャで、とても整理しきれていない。


 歳の離れた友だちだった。

 手本となるべき、男の背中を教えてくれた。

 復讐の鬼で、徹頭徹尾、家族のために行動していた男だった。


 簡単な一言で片付けられる関係じゃない。

 折り合いなどつけられるかも分からない。


 ただ、雪に覆われて人知れず埋もれていくより、アレクサンドロには炎が与えられて終わるべきだと思った。


 苛烈な日輪。灼き焦がれる恩讐。


 アイツもまた、凄い人間だったのは変わらないから。

 その凄まじさに見合う、壮絶な見送りを。

 

 ……さて。


 なんて書き綴っている内に、そろそろインクが切れかけだ。

 紙幅に余裕はあるが、これ以上は限界に近い。

 インクだけでなく、ヴォレアスでの暮らしそのものが、困難になってきている。


 ベアトリクスの加護を失った極北での生活は、緩やかな餓死に直結していた。


 屋根裏の扉は無くなり、狩りもできない。

 それでも、本当はもう少しだけ、耐えられる見通しがあったっちゃあったんだが……思いもしない来客で、予定が変わってしまった。


 なぁ、誰が来たと思う?


 セドリック・アルジャーノン。


 死んだと思っていたイケオジだ。

 ドラゴンに襲われて死んだと思っていたのに、どうやら逆に、ドラゴンの方を退散させて生き延びていたらしい。

 それどころか、デドン川からノタルスカ山脈を越えて、ついにヴォレアス。

 完全なる単身踏破。


 ただものじゃない。


 まあ、出会い頭にいきなり号泣して、縋るように跪かれた時は、俺も新手の怪物かと思って、つい斧を握りかけてしまったのだが、どうやら話を聞くと、きちんと正気を保った人間だった。


 ダークエルフ──懐かしき我が同胞。


 ほとんど縁切りに近い関係ではあるが、旅のツラさは重々承知している。

 聞けば離れ離れになった俺を探して、ずっとあちこちを彷徨していたらしい。めちゃくちゃいいヤツじゃない?

 そんな話を聞かされては、俺も鬼ではない。

 ここまで来るのにさぞ苦労したのでしょうと、しばらく屋根を貸してしまった。


 んで、そこから先が、なーんか妙な話になってしまったんだが……


 


 イケオジ曰く、俺はどうもそういう名前らしい。

 ダークエルフの王国メラネルガリア。

 現王の名は、ネグロ・アダマス。

 すなわち、王位継承権が俺にはあるんだと。


 ……いやいやいや、いやいやいや。


 このイケオジ、ユーモアのセンスもあると来た。

 さてはかなり、おモテになりますね? とからかったら、今度は首から提げるネックレスこそが証拠ですと大真面目に言ってくる。


 黒尖晶スピネルの首飾り。


 やや紅みを帯びた小さな貴石。

 それは、たしかに俺の実母らしき女性ひとから、贈られたもので。


 イケオジは言う。


 その貴石は、第三位貴族であるスピネルの家格がなければ、メラネルガリア社会において身につけることを許されない物です。


 俺は困惑した。


 ──ええ? そんなこと言われても……


 まあ、何はともあれ。

 俺の人生は続いていく。

 思っていた以上の幸運に恵まれて。


 世界は壮大で、複雑で、割と深刻な様子だけど。


 一歩一歩、たしかに進んでいけば、分からないことは減らしていける。


 手に入れたけど、失ってしまったもの。

 この胸に、いまも残るもの。


 離別の苦しみは堪えがたいが、前を向くことで手向けとする。


 旅は、終わらない。


 そしてまた、いつの日にか此処へ戻り、ただいまとそう言うのだ──


 〝ありがとう〟


 その一言とともに。






────────────

tips:黒尖晶の首飾り


 メランズール(ラズワルド)が肌身離さず首から提げていたネックレス。

 普段は服の下に入れている。

 ベアトリクスもケイティナも、決してそれには触れようとしなかった。

 話題に出すことも避けた。

 だって、もしも触れてしまえば、彼は外の世界に想いを馳せるだろう。

 現実はまったくそんなコトなど無かったワケだが、彼女たちは心の奥で怯えていた。

 ──いまはただ、その旅立ちにありったけの祝福を。


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