#062「別れ」
黒が爆ぜる。
呪いが爆ぜる。
ダークエルフの王子に刻まれていた奇怪な刺青。
刺青でありながら、絶えず蠢き回り、夜色の素肌を、宿主も知らぬところで常に這いずり回っていた古の
その正体は、世界に忘れられた神代の秘文字だった。
メラネルガリアの邪王は、妄執に囚われれど、神域の御業に到達していて。
最北の永久凍土地帯ヴォレアスの白銀に、極小の文字の連なりが、波のうねりのように黒色の触腕と化して、天地へ爆発する。
途端、『白髏の夜』は次々に喰われた。
世界を覆い、埋め尽くさんばかりだった五千年の嘆きと怒り。
その侵食が、さらなる
舞い散る雪のように、天を覆った無数の『手』も。
地表を埋め尽くす積雪のように、足元を襲ったおびただしい量の『手』も。
少年の全身から、ほとばしるように放射された『捕食の風』に消えていった。
──魔法とは、魔力ありき。
──魔力とは、存在力そのもの。
であれば、魔力を喰らう黒王秘紋。
その奇蹟は、秘文字による存在真体の書き換え。
自分以外のすべての霊的真髄──他の魔力を、強制的に王へと捧げる簒奪呪詛。
本来秘文字とは、神代においてエル・ヌメノスの尼僧にのみ許された世界改変の大権だが、これは呪いに染まり、奪い取ることに特化していた。
……しかし、そんな事情をつぶさに把握しているのは、いまここには誰もいない。
唯一察している者がいたとすれば、それは魔道に浸る白嶺の魔女。
彼女だけが、たったひとりダークエルフの少年の背中を視認していた。
ゆえに、
「……ああ、ラズィ」
「ママ……?」
「はぁ……はぁ……」
白き死が無くなった後。
しんしんと雪の舞う静かな夜。
穏やかな風がそっと抜けて、家族は最期の話を、そこで始めた。
「──ありがとう、ラズィ。それにキティも、よく頑張ったわね」
「ママ!」
柔らかな声が耳朶を震わす。
ケイティナが弾むようにママさんに飛びつく。
頭を撫でる手は優しくて、ふたりは笑顔で抱きしめ合って幸せそうだった。
俺は数瞬、すべてがいい方向に落着したのだと錯覚して、
「ぁ」
「……ああ、そんな顔をしないで? これは悲しいことじゃなくて、嬉しいことなの」
いままでで一番、やさしい微笑み。
彼女は素顔を晒していた。
羚羊の白髏面。
異形の頭部。
角だけは依然として、髪の隙間を突いているけど、初めて見るのに初めて見た気がしない。
彼女はきっと、これまでもずっと、こんな笑顔で俺たちを見守っていた。
そのことが、はっきりと胸の底に落ちる。
「ダメだよ、ラズくん。泣いちゃダメ」
いつもと変わらない快活な響き。
お姉さんぶるときの言い聞かすような口調。
安心する笑顔。
やっと取り戻せた幸せの証。
なのに……
「ぁ、あぁあっ……ごめん、ごめん……!」
「イヤだわ。どうして、ラズィが謝るの? 謝らなきゃいけないのは、私の方なのに」
「そうだよ。それに私たち、こんなに嬉しいんだよ?」
「だってッ、だって──!」
「……ああ、これね?」
「気にしなくていいのに。これはラズくんのせいじゃないんだから」
困ったように眉を下げる。
ふたりは揃って同じ反応を浮かべていた。
風が吹いて、粉雪が舞うたび、体は薄くなって。
もう、背後など、とっくに透けてしまっている……
「俺のせいだろ……俺がっ、ふたりから奪ったから……!」
「それは違うの。この胸を貫かれた時点で、私たちの終わりは決まっていた。そこから先は、ほんとうにただの悪あがきでしかなかった」
「ものすっごく怖かったけど、あれは魔法。ママであって、ママじゃないの」
「……だから、ごめんなさい。私のせいで、ラズィにはとんでもない苦労を背負わせちゃった」
止めてくれて、ありがとう。
助けてくれて、ありがとう。
手を掴んでくれて、嬉しかった。
引き上げてくれて、嬉しかった。
だから気にする必要はどこにもない。
「あなたはすでに死んでいたものを、あるべきところへ戻してくれただけ」
「罪悪感なんて覚える必要はなし! もちろん、その気持ちは嬉しいけどね」
ふたりは困ったように俺の顔へ触れる。
生者が死者に囚われるべきではない。
だから、ほら、
「「前を、向いて?」」
「う──ぁ、あ──ァあ──!」
「……もうっ、笑ってってば。ラズくんは、泣き虫さんなの? お姉ちゃん心配だぞっ!」
「く……!」
「──そう。いい子よ、ラズィ」
お別れは、どうせなら笑顔でしないと。
「来て?」
腰を屈めて伸ばされた両腕に従い、ふたりに歩み寄る。
背中に回した両腕は、どちらもだんだんと感触を失っていく。
けれど熱だけは、ふたりからたしかに感じて、
「っ」
「私たちはここで、先に行ってしまうけど、いつだってラズィのそばにいるわ」
「寂しい想いはさせちゃうけど、絶対、私たちの分まで幸せになるんだよ?」
「最後に聞いて? 私の本当の名前は、ベアトリクス」
「っ! ベアトリクス……?」
「ええ。それが、私たちの最初の名前。名前を呼んでもらえるなら、それが一番嬉しいの」
覚えていて?
「それといつか、たまにでいいから、思い出して」
「……すごい。私もはじめて聞いた」
「キティは、ママって呼んでくれるから」
「なんで、俺だけ……?」
「恥ずかしいけど、ラズィはずっとママさん、って呼び方だったでしょう?」
だから、本当の名前を思い出せた以上、どうせならその名前で覚えていてもらいたい。
一度も呼び捨てにされないまま、これでお別れになっちゃうのは、寂しいし悲しいの……
「ベアトリクス……祝福の運び手。すごくいい名前だよ、ママ」
「……ふふ」
「分かった──ベアトリクス。ケイティナ。ふたりの名前は、一生忘れない。忘れられるワケがないだろ」
どうして、失うしかないんだ。
「……騙していて、ごめんなさい。魔法をかけて、ごめんなさい」
「黙ってて、ごめんね? 嘘をついてて、ごめんね?」
「いいんだ。そんなのもう、べつにいいんだ……!」
楽しい思い出の方が多かった。
与えられたすべてに、感謝しかなかった。
贈られてばかりで、返すべきものを何ひとつ返せていない。
俺の方が、ふたりにはたくさん謝らなくちゃいけなくて、
「長生きして、いっぱい美味しいものを食べてね?」
「大きくなったら、いろんな国の歌を聞いてみて」
「ああ……ああ……!」
「「──ありがとう。大好き」」
「…………ァァああああああああああああああああああああああああああああああああ──ッ!!!!」
そして、ふたりが消えた。
幻のように風になった。
熱が失われる。
風花が両の五指から零れ落ちる。
冬の冷たい夜気。
すべては、しんしんと、何事も無かったように静寂に沈んで──
──そうして。
忘れてはならない幕引きのための決着を、もうしばらく。
「…………」
男は仰向けに、雪に埋もれながら空を見上げていた。
太陽はすでに消えている。
聖剣はその剣身を砕き、蝋燭のようなチロチロとした火が、かろうじて
だがしかし、もはや復讐鬼に動けるだけの余力はなく、肉体は鉛よりも重い。
視界は掠れ、アレクサンドロ・シルヴァンは誰が見ても虫の息だった。
──そこに。
「…………」
黒い影がひとつ、ズルズルと近づいていく。
力無い足取り。
しかし、現状のアレクサンドロに比べれば、遥かに意志力に満ちた明確な一歩で。
片手には斧。
氷でできた見慣れぬ斧を、ぎゅっと握っている。
(……ああ、たすかったのか)
アレクサンドロは喜んで、声を発そうとした。
しかし、声を発そうにも喉が動かせない。
呼吸もだるく、動かせるのはせいぜいが視線だけ。
何も抵抗することはできない。
(抵抗?)
そこで疑問。
オレは、抵抗がしたいのか?
少し考え、なんとなくそうではないと感じる。
そうしているうちに、
「…………」
黒い影が、復讐鬼を見下ろした。
暗い空に、青の瞳が星のように流線を引く。
まるでそれは、美しい絵画のようだった。
ゆっくりと振り翳される断罪の刃。
真っ直ぐに、首元めがけて、綺麗に降り落とされて、
(……ああ、そうか)
ありがたい。
そしてすまなかった。
まさかこの期に及んで、後始末までつけてくれるなんて。
(三千年ぶりにできた友にしては……オマエは本当に、オレにはもったいないヤツだったよ)
すべては因果応報。
相応しき末路。
目蓋を閉じ、ほっと一息。
長き旅路の
過去最高に重さを増していた肉体は、そこから先、二度と重さを感じなかった──
────────────
tips:秘文字
エル・ヌメノスの尼僧に口承される神代の秘儀。
あまねく存在に干渉可能な秘し文字。
世界神の権能の一部。
また、第八の神が伝えし呪文は、この秘文字を真似たものだとも云う。
メラネルガリアの現王は意図してかせざるか、この神秘に到達した。
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