#061「白嶺の魔女」



 パキリ、ポキリ。

 パキパキパキ、ズルズルズル。

 グググググ、ドサッ。


 異変は音とともに現れた。


「……殺してやるわ」


 絶対に殺してやる。

 女の声。

 妙に重なっていて。

 心臓霊核を刺して斃したはずの怨霊が、沼のように瘴気を横溢させた。

 ドレスの裾やカラダに空いた孔。

 胸と背中の中央。

 ドロドロと溢れ出てきて、その内側から、が無数に浮かび上がる。


 白い女の手。


 

 おびただしい勢いで増殖していき、気がつけば

 這いずり回り、彷徨いうねり、頭上も足元も埋められた。

 その数、およそ目視では計測不可能。


「────なる、ほど」


 あまりの光景に、つい納得した。

 天地を覆う一面の白。

 美しくも悍ましき無数の手。

 はじめはまた、冬至ユトラの獣神によって、聖剣の結界を塗り変えられたのかと錯覚したが、そうではないらしい。


「〈領域レルム〉の顕現……」


 此処は白嶺の魔女という、大いなる魔物によって築き上げられた

 異界には三種の等級が存在し、およそ低級のものから第三、第二、第一と規模を上げていくのだが、これは間違いなく第二級。


「──いや。この異様、第一にも迫るか……」


 人外、異形、怪異による特権領域の創造。

 帰らずの森や鏡の向こう側、壺の中の別天地、誰そ彼れ刻に逢魔ヶ刻、橋の下、大樹の虚、川の向こう岸。

 現世うつしよの淵にも、得てして彼方あちら側へ通じてしまう場所が点々と存在しているが、大魔の伝説は時としてそれらと同規模以上の異界を作り上げる。


 長いあいだ世界に名を刻み込んだ魔物は、その存在そのものが伝説に等しい。


 伝説は人伝に広まり、やがては誰もが知る物語となり歴史へ。

 人々が渡り歩き、大地を踏み締め、幾度となく語り継ぐそのたびに霊脈へ浸透していく。

 白嶺の魔女の場合、それは暗黒の御伽話ダークグリム・フェアリーテイル

 世界にはそう、認識された。

 各神話に語られる天上国や地底下界。

 いとあやしき妖精郷、闇夜鴉の幽冥界、黄金楽土といった第一級のそれほど強力ではないが、極めて独特な法則に構築され、〈ムンドゥス〉の主をどうにかするか、敷かれたルールの中で、正当なゴールを迎えるまでは絶対に脱出不可能。


 〝姿ある異世界〟


 それが、第二の別名。

 第三級までが信仰基盤ないし宗教基盤。

 その土地その土地で深く信じられている常識や概念止まりであるのを鑑みれば、第二からはれっきとした〝隔り世〟である。

 三兄弟三姉妹の神話を下敷きに、アレクサンドロも魔術式を成立させているが、それは『三兄弟三姉妹の神話』という一種の異界領域──神話世界があってこそ。

 壊れた星の紀以来、〈渾天儀世界〉には数多のが折り重なっている。


「……考えてみれば、おかしな話だったな」


 七つの冬至セプタ・ユトラの獣神を使ってきたことで、つい誤解してしまったが、『白嶺の魔女』とは本来、単体で伝説と化した生粋のバケモノ。

 支配下におく死霊がどれだけ強大でどれほど偉大でも、そんなものはそもそも魔女本人の禁忌特性──狂気とは、何も関係がない。

 アレクサンドロは呆れ果てて嘆息した。

 あるいは、失笑を浮かべそうになった。


「……ヴォレアス全体を己が領域にして、何年経つ? いったいどれだけ、この土地の霊脈を貴様の魔力で穢し続けた?」


 霊核を刺し貫いた以上、勝ったのはオレだ。

 しかし、


「完全に消滅するそのときまで……最後の最後まで、呪いを振り撒くかよ」



 ──“白髏の夜、喪失の帳レトゥス・アルバ



 禁忌の禁忌たる由縁。

 その魔法は、魔女の手で掴んだモノを一瞬で凍死させる喪失の強制同調。

 捕まったモノは奴隷として、永遠に死霊術で玩弄される。

 触れられた。

 体内の血がすべて冷気になった。


「かハッ」


 即死。

 然れど太陽は赫き。

 ひび割れるカラダ。欠け落ちる眼球。急速に脆くなる心臓と肺。

 血を失い肉体が凍てつこうとも、それでも炎の車輪は回転を続ける。


「アア……アアアアアアッ!」


 自業自得だなと、崩れた笑みを浮かべながら結果を受け止め、アレクサンドロは聖剣を振るった。

 咆哮。

 咆哮咆哮咆哮──!

 極北を覆う白き手のひらに、復讐鬼は呑み込まれつつ、決して剣を離さなかった。

 どこもかしこも、見渡す限りの怨敵。ならば殺すだけ。殺し殺して、殺し尽くされる。


 晩冬の夜に、嘆きの呪詛が谺響した。




 ────────────

 ────────

 ────

 ──




 けれど、呪詛の中心では。


「ママッ! ママッ!」


 ぽっかりと空いた小さな丸い空間。

 魔女は二つの影を抱いて、微動だにしていなかった。

 ぺたりと座った姿勢で、人形のように動かない。

 ただ子どもを抱き寄せたまま、物言わぬ骸の虚ろを晒している。

 顔を覆う薄布のヴェールは落ちた。

 そこには、真っ白な異形の面。

 有角の白髏面が、見目麗しき女の細面を飾って……


「ねえっ、止まって! 止まってってば! もういいの! もう大丈夫だから!」


 それを、少女は必死に声を発して呼び覚まそうとしていた。

 心臓霊核を損傷し、魔女は理性を失っている。

 それどころか、目の前で息子まで失い、前世の傷をこれ以上ない形で抉られた。

 消滅の運命は変えられずとも、子どもを失った母親たちの霊は、口々に叫んでいる。


 ──我が子を殺したあの悪魔を、絶対に許さない。


 群体であることが、奇しくも猶予を与えてしまった。

 魔女は今際の際、意識を依代から剥離させ、自身の本質と言っていい心象大魔法──『白髏の夜』を発動させてしまったのだ。

 すべては残りの存在力を、〝呪い〟として現世に刻み込むために。


「なんでっ……、どうして届かないの……!」


 ケイティナはそれを察している。

 娘として長年彼女と暮らしてきた。

 母の思考と習性は誰よりも承知しているし、ゆえにこそ、ダメだと声をあげている。

 胸を叩いて肩を揺すり、半神の能力を再び全開にしてでも。

 自分が生贄になったのは、この女性ひとたちを止めるため。

 それに、


「ママ……! 貴女は本当は、誰よりやさしいひとでしょう……!?」


 今のケイティナはもちろんそれを知っている。

 だからイヤだ。

 こちらの声が届かない。

 カラダが末端から薄れていく。

 時間がないのに。

 間に合わないと焦っているのに。

 必死になって訴えかけても、まるで手応えを感じない。

 母の魂は、この数千年間いずれに比しても最も深き奈落に沈んでしまった。

 このままでは、白嶺の魔女の名がより一層人々に恐れられる。

 ヴォレアスを覆う白き風は、海をも越えて四方大陸を彷徨い続けるだろう。

 現象と化した呪いなど、退治することもできない。本当の厄災に変わってしまう。


「そんな未来はイヤ……イヤなの……!」


 愛しているから。

 愛されてしまったから。

 大好きなママをこれ以上、みんなに嫌われたくない。

 それがたとえ、恋した弟の無念がキッカケであっても、見過ごしてしまってはいけないのだ。


「──だって、ラズくんは最後まで、殺し合いを止めようとしてくれたんだよ……?」


 自らの命すら差し出す覚悟で、生者である彼が死者であるケイティナたちを救おうとした。

 触れるべきではない死人の手を、握って、包み込んで、あたたかいと言ってくれた。

 その想いに、どうして姉であるケイティナが応えられずにいられよう。


「だからママ……!」



 ──私の子はどこ……?

 ──愛しいラズィ、可哀想に、今ごろ寂しがっているのよ……?

 ──ねぇ、どこに隠したの? なぜ奪ったの? 分からない、分からない。

 ──教えなさいよ。教えるべきよ。教えてってば。

 ──ああ、ぁあ、ああぁぁ……

 ──ここは寒い。寒くて寒くて寒くて寒くてたまらないッ!

 ──ねえ、どうしてこんなに寒いの?

 ──……あの子がいないとダメなのに。

 ──あの子がいないとあの子がいないとあの子がいないとォォッ!!

 ──ふ、ふふ、ふふふ、ふふふふふふふふふふふ。

 ──分かったわ。そう。そういうコト!

 ──もしかして、またなのね? またオマエたちなのね?

 ──忌々しい悪魔……よくも私の前に姿を現したなァッ!

 ──死になさい。死になさい。

 ──死んで死んで死んで死んで死んでェッ! 永劫呪われろッ!!!!

 ──いつかふたりの結婚式を見るはずだったわ。

 ──幸せな未来があったはずなの。

 ──誰があの子たちを守ってあげるの?

 ──誰があの子たちに美味しいごはんを作ってあげられるの。

 ──私の可愛い子どもたち。よくも奪ったな。よくも殺したな……

 ──だれかたすけて……

 ──オマエたち悪魔なんて、永遠に苦しみ続ければいいッ!

 ──許さない許さない許さない。

 ──……アハハハハハハハハハハハハハハハハ……!



「なん、で──!!」


 ケイティナは顔を歪めた。

 呪詛の嵐が、一向に勢いを弱めない。

 そして察知してしまった。

 死者では、死者を救えない事実を。


「私は、ママの魔法で動く死霊だから……?」


 死者の悲嘆から生まれたモノでは、同じく死者の悲嘆を止められない。

 その心に寄り添い慰めることはできても、死者を救えるのは常に生者。

 なぜなら、生者だけが亡くなった者を悼み、見送る資格を持つ。


「……うぅぅ、ラズくん……!」


 悔しさから、ついその名前を呼ぶ。

 応えはもう、二度と返ってはこないと知っているのに。

 死んでいるというのなら、なぜ涙が流れるのか。

 そんなのおかしいじゃない、と少女は絶望する。

 雫が一滴、彼の頬へ飛んだ。


 ──刹那


「……ぇ?」


 ダークエルフの背中から、──






 ────────────

 ────────

 ────

 ──






 ……では此処に、いま一度問う。

 貴方はもう終わってしまっていいのか。

 思い残した悔恨は、未練はほんとうに無いか?


 ──私、いつか吟遊詩人になるのが夢なんだ!


 その言葉を覚えているはずだ。

 未来など無いと知っていたはずの彼女が、それでもと笑ってみせた夢の話。

 家の庭先で、それはとても暖かな光景だった。


「……ああ。歌声を褒めると、照れ隠しに怒ってきて、めちゃくちゃ可愛かった」


 ケイティナの夢を、もし叶えられる手伝いができるなら、俺は何だってする。

 笑顔が素敵なこの娘なら、必ず人気者になるだろう。

 厄介なファンがついたら、俺が守ってやらないといけない。

 そんな幻想を、つい一緒になって夢想した。

 口に出して伝えるのは、とても気恥ずかしくて無理だったけれど。


 未来の話をした時、少女は段々とツラい顔を浮かべるようになった。

 ふたりで一緒に世界地図を見つけた時、あの娘は自分が行けない何処かを想像して、心で泣いていた。

 ──生贄としての人生など、あんまりだとは思わないのか。


「思うに決まってる」


 神の血を引いていようが何だろうが、ケイティナはごく普通のありふれた女の子だった。

 心優しい幼気な少女に、どいつもこいつも、どれだけ重い責任を負っ被せれば気が済む?

 そんな非道がまかり通っていいはずないだろう。

 ケイティナひとりを犠牲にして助かろうなんて世界は、端からどうかしている。


 ──その通り。

 では、彼女はどうか?

 いままさに、狂奔の只中に囚われるたくさんの女性。

 世間に白嶺の魔女と呼ばれ、多くの怨みを買っている。

 彼女たちの慈愛は、まったくの嘘偽りであったのだろうか?


「いいや、彼女のやさしさは本物だった」


 子の成長を喜び、子の未来を案じ、その将来にいついつまでも平穏あれかしと心より願う。

 仮に彼女たちが、救いようのない根っからの魔物であると云うのなら、それはきっと愛情の深さがそうさせたからに違いない。

 慈しみの深さ。

 母としての純心。

 それが常人よりも、遥かに大きかったからこそ、喪失の哀しみもいっそう深かった。

 

 ──然り。

 罪はある。

 殺戮の咎はどうしようと贖い切れぬ。

 然れど、その真実だけは決して揺るがない。

 慈愛の深さこそが、魔女の堕ちたる奈落の深さ。

 愛するものを奪った『死』を許せない。

 喪ったものを必死に取り戻そうと今なお『手』を伸ばす。

 ……聞こえていたはずだ。


「嵐のような呪いの渦中に、と救いを求める声……」


 ならば、為すべきことがまだ残っている。

 貴方はこんなところで終わっている場合じゃない。

 そうだろう?


「……でも、どうやって……」


 方法は分かっているはずだ。

 知らぬはずは無い。

 貴方はすでに答えを知っている。

 思い出せ。


「思い出せ……?」


 ニドアの林で、意思持つ大木がいたはずだ。


「! ……ああ、そうか。

 一度目の冬越えで、俺はアレに殺されていたんだ……」


 鞭のようにしなる枝。

 あるいは根。

 それにより肉体は完全に破壊され、骨と内臓はぐちゃぐちゃ、ほとんど即死状態。

 その後は人知れず雪の下に埋まって、ひっそりと終わっていくのが本当の結末だった。

 ダークエルフの身体がいかに頑丈だろうと、物事には限度というものが存在する。


 ……そう。

 では何故、貴方は生き延びた?



「──



 ──是。

 我ら、比翼の鳥にして連理の枝。

 運命の主従。

 貴方の覚醒を誰より待ち望んでいました。

 存在の王よ、秘文字の奇蹟は此処に戴冠されます。

 開帳の時、来たれり。


 其は、〝魔力喰らいの黒王秘紋〟



「──だったら、力を、貸せよおおぉぉぉぉおおッ!!」



 涙を止めるため。





────────────

tips:〈領域〉


 レルム。またはムンドゥスとも。

 中つ星に折り重なる様々な常識・法則・風景のこと。

 分かりやすく言えば異界。

 三つの等級に分けられる。

 簡単な概要は以下の通り。


 第一級:神話(字義通りの異世界)

 第二級:伝承(現実に隣接した隔り世)

 第三級:基盤(無形だが確かにそこにあるもの(信仰等))


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