#025「日本語を話す美少女」



 つんつんつん、つんつんつん。

 気がつくと、俺は見知らぬ美少女に頬をつつかれていた。

 つんつんつん、つんつんつん。

 右頬をリズミカルに刺激する冷たい指先。


(え、なに……?)


 暗闇に沈んでいた意識が急速に浮かび上がり、困惑とともに外部の情報を認識していく。

 どうやら俺は毛布にくるめられ、ベッドに寝かされているようだ。

 天井は見知らぬ木板で、部屋の中はオレンジ色に明るい。

 ベッド横の戸棚に置かれた真鍮製の燭台。

 それと、奥の方にある大きめな暖炉。

 耳を澄ますとパチパチパチ。

 聞き慣れた薪の爆ぜ音が、揺らめく影を壁に伸ばす。

 四方の壁は灰色で、立派な石造りだ。

 ガラス製の窓まで嵌められて、ベッド上からでも外の雪景色が伺える。

 テーブルや椅子、書棚にベッド。

 アンティークっぽい調度品類含め、全体的な雰囲気は西洋の古民家に近いだろうか。


(……え、どこここ?)


 そして、先ほどから人の右頬を、ひっきりなしにつんつんしている謎の美少女。

 顔立ちは北欧系だろうか。髪も肌も色素が薄い。

 プラチナブロンドのサラサラセミロングヘアー。

 眼は琥珀のような金色。

 年齢は見たところ、十代の前半で、今の俺からするとやや歳上になる。

 服装は深い緑のゆったりとしたロングワンピース。

 細かく刺繍されたモコモコのストールを羽織り、質素ながらも上品なオシャレ屋だ。

 どういうワケかニコニコ笑顔で、「パァァ……!」て擬音が聞こえてきそうなほど嬉しそうにしている。


 つんつんつん。

 つんつんつん。

 つんつんつんつん、つんつんつん。


「ちょ、な、なに? や、やめーや!」

「!」


 思わず声を出して顔を逸らす。

 すると、少女はさらに喜色満面になった。

 ガタリと椅子から立ち上がり、勢いよく身を乗り出す。

 そしてそのまま、ググっと顔を近づけて来た。


(お、おぉうっ?)


 あまりに急に近づいてくるものだから、一瞬だがキスでもされるのかと身構えてしまった。

 しかし、少女はさすがに寸前で止まり、イエローゴールドのなんだかキラキラしたまんまる目で口を開く。

 桜色の唇が、小鳥のようで愛らしい。


 が、


「キミ、喋れるの!?」

「────は?」


 少女の唇から紡がれた言の葉は、だった。


「……え。い、いま、日本語……?」

「? ニホンゴ?」

「話せてる……」

「? うん!」

「っ──ぁ、うそ、まじ……?」

「どうかした?」

「! あぁ、ああぁぁぁ──!」

「え、あ、えっ!? あ、あれっ? だ、大丈夫!?」


 突然の異変に動揺する少女。

 先ほどまでのニコニコ笑顔が、ひどく慌てたものに変わってしまい、申し訳ない。

 けれど、少女が俺に「ど、どうしよう。も、もしかして、ぽんぽん痛い? それとも、わ、私なにかしちゃった……!?」と声をかけてくれるその度に、嗚咽が止まらなかった。


 夢でも幻でもない。

 たしかな現実。

 少女の言葉は何もかも暖かで優しすぎて、心にスッと沁み込んだ。

 驚愕という言葉では物足りない。

 異世界に来て初めての出会いと歓喜。

 言葉の通じる存在が、目の前に現れた。

 たったそれだけのことが、いともたやすく涙腺を緩ませ、こうまで目頭を熱くする。


 ──そこに。


「█████? ███████?」

「! ママ!」


 部屋の奥、リビングを挟んだ向こう。

 樫の玄関扉が開かれ、黒衣の女がぬらりと外から姿を現した。

 刹那、ドッと入り込む極寒の冷気。

 室内気温が瞬時に低下し、わずかだが炎の勢いが弱まる。

 背筋にはゾクリとした感覚と一緒に、緊張の糸がピィンと張り詰めた。

 ドキン、と心臓の跳ねる音──間違いない。

 女は、俺が意識を失う直前、あの巨人のような怪物たちを、一瞬で殺してのけた異形である。


「█████」

「うぅ、ごめんなさい……」

「███、██████」

「! わかった!」


 何事かを話し合う女と少女。

 一方の言葉は理解できるが、もう一方のはやはり理解できない。

 俺の目には少女は日本語を話し、女は異世界言語を扱っているように見えるが、二人はなんの問題もなさそうに会話をしている。


(……ど、どういうことだ?)


 考えたが理解は不能。

 とりあえず分かったのは、ものの見事に涙が引っ込んでしまった事実だけ。

 異質な存在の登場で、全身が瞬く間に緊張状態に陥る。

 俺は咄嗟に、腰元にまで手を伸ばしてしまった。

 だが、


(あ、あれ!?)


 けれどそこに、慣れ親しんだ石斧はなく。

 いったいどこに? と必死にあたりを見回せば、ベッドから離れたテーブルの上。

 リビングのところで、諸々の持ち物が無造作にまとめられていた。

 なんてことだ。

 こんなことにようやく気がつくだなんて!


「ウッ、グわァ──!?」


 心細さと頼りなさ。

 信頼できる唯一の道具を取り戻そうと、俺は思わずベッドから立ちあがろうとし──床へ激突。

 激痛が、右足を蹂躙していた。


「██!?」

「あ、ダメじゃない!」


 苦痛の呻き声を上げた俺に、女と少女が慌てた様子で駆け寄ってくる。

 そしてそのまま、二人は協力して俺をベッドに戻した。


「まだ治りきってないんだから、ベッドから出ようとしちゃダメでしょ!」

「《i》“██”《/i》」


 少女は怒り顔でプンプン。

 女は何かを呟き、そっと右足へ触れた。

 すると、徐々にだが痛みが薄まり、俺はなんとか元の呼吸へ落ち着いていく。


(……痛ゥゥ……なにやってんだ、俺)


 年端も行かない少女に毛布を掛けられ、情けなさから唇を引き結ぶ。

 今のは完全に、どう考えてもおバカな行動だった。

 異形の女はたしかに異質でおどろおどろしい。

 けれど、今さら何を足掻こうたって、すべては無意味な行動でしかないのだ。

 少女はともかく、今ここで二人に反抗したところで、未来は変わらない。

 冬越えの準備はなく、そもそも石斧を持ったところで、勝てる道理が見つからないのだから。

 一時は完全に身を委ねたというのに、我ながらどうしてこう……往生際が悪いのだろう。

 ハァ、と嘆息を溢して、ベッドから二人を見上げた。


「──とりあえず、ありがとうございます」

「え? あっ! うん! どういたしまして!」

「██?」


 少女はニコリと微笑み、女はコテンと首を傾げる。

 やはり、言葉が通じているのは少女の方だけのようだ。

 それを察したのか、少女も「あれ?」といった顔で女と俺を交互に見比べる。


「──あ。やだ、もしかしてキミ、セプテントリア語以外の言葉を喋ってる?」

「セプ……? えっと、すみません。何です?」

「あっ、いいのいいの! ごめんね、そっか……そうだよね! ちょっと待ってね」


 少女は「うーん」と両腕を組んで何かを考え込み、やがてすぐにパッと顔を綻ばせた。


「ママ、ニホン語って知ってる?」

「████?」

「うん。この子の話してる言葉、ニホン語って名前の言葉みたいなんだけど」

「──████」

「そっかぁ。じゃあやっぱり、この子との会話、私しかできない感じだね」

「███!」

「ズルくないよ! ママだってたくさん魔法使えるじゃん! それに比べたら私が〈神の落とし子デーヴァリング〉なことくらい、全然ズルくありませーん」

「██……」


 女はガクリと肩を落として、のそのそとリビングへ向かった。

 ……どうやら、何かしら話がまとまったらしい。

 意気消沈といった雰囲気の女とは裏腹に、少女は再びの喜色満面だ。


(にしても、この二人)


 どう見ても血の繋がった親子には見えない。

 というか、女の方は生き物かどうかも怪しいはず。なんか真っ黒いオーラみたいなの出てるし……

 仲は良さそうに見えるが、いったいどういう関係なのだろうか?


「えー、コホン」


 そんな風に俺が、両者の関係性を推量していると、少女が咳ばらいをして椅子に座った。

 座る際の動作も実に女の子らしい。

 第一印象よりもだいぶ快活で、口調はまるでコロコロと転がる鈴のようだが、所作の一つ一つには育ちの良さを窺わせる。


「じゃあ、改めまして──おはよう、あるいはこんばんわ! 私の名前はケイティナって言いますっ! 種族はデーヴァリング! キミは?」

「あ、これはどうもご丁寧に。俺はダークエルフの……」


 と、そこで。

 俺は自分の名前を、ちゃんとは知らないことを思い出した。


(いや、推測はある。推測はあるんだ)


 何せ名前だし、たぶんだけど何となくコレだろうなぁ、て単語はきちんと覚えている。

 ただ、異国の人のやたら流暢な発音は、いちいちヒアリングするのも難しくて、どこからどこまでが一単語なのかがとても分かりずらい。

 なので、


「……メレンゲ。いや、メロン! たぶんメロンです!」

「……メロン?」

「ごめん。実はよく知らないんだ」


 思いのほか訝しげな顔が返ってきたため、素直に負けを認めた。

 くそ、やっぱりダメだったか。

 どうやら異世界人の感覚からしても、メロンの名前はかなりふざけて聞こえたらしい。


「名前、ないの?」

「ぐっ」


 少女──ケイティナは、本気で可哀想に想った様子で眉尻を下げる。

 違うんだ。本当はメから始まる名前がちゃんとあるはずなんだ。

 ただ残念なことに、俺が異世界言語を習得するには、どうにも時間が足りなさ過ぎて……

 純真な哀れみに、この世界での両親に対する罪悪感が一気に倍増してしまった。いや、不出来な息子で本当に申し訳ない。


(ともあれ、名前と来たか……)


 さて、どうしたものだろう。

 これまではひとりだったので、別段困ることは無かった。

 しかし、よくよく考えれば名前が無いのは不便極まる。

 俺がそう、答えに窮しつつ眉間にシワを寄せていると……


「じゃあ、あとでママにつけてもらおっか!」

「え?」

「私もね、本当の名前は知らないんだ。でも、ママがつけてくれたの」

「つけてくれた……って、名前を?」

「うん!」


 ケイティナは嬉しそうに微笑む。

 これは……思っていたよりも、かなりヘヴィーな展開?


(しかしなるほど)


 妙な二人組とは思っていたが、要はそういう間柄だったか……

 色々と得心のいく関係性に、俺はなんとなく背景を察してしまった。

 悲しい事情ってのは、案外どこにでも転がっている。

 まぁ、それはともかくとして、


「んじゃ、名前は追い追いつけてもらうってことで、すみませんがよろしくお願いします」

「うん! あとで頼んでおくね? ママ、大喜びすると思うな」

「ところで、一つ質問してもいいですか? デーヴァリングってなに?」

「? あ、そっか。デーヴァリングって珍しいんだっけ? 分かった。教えてあげるね!

 ……えっと、デーヴァリングっていうのは、分かりやすく言うと、半分人間で半分神様の血が混ざっている大昔の種族なの。

 私の場合はほとんど人間なんだけど、先祖返り? ってやつで、ちょっとだけ神様の血が濃いみたい」


 おかげでどんな言葉も話せるし、読めない本も一冊も無いんだ。

 ケイティナはなんてことないような様子でサラリと答えた。

 いや、待て。神様?


「こりゃまた、随分ぶっ飛んだ異世界ファンタジーが来たな……」

「いせかいふぁんたじー?」

「ああいやっ! なんでもないです……」

「そ? ともあれ、よろしくね!」


 差し出された右手に「こちらこそ、よろしく」と右手を返し頷く。


(手、ちっさ! やわらか!)


 中坊の頃なら間違いなく舞い上がっていた。

 これが半分神様の手ってマジ?

 俺、神様の手を握っちまったよ。


「私、『弟』って初めてなんだ。というか、男の子とお話するのも初めて? うん、そうだ。そうなの! だからね、キミと会えてすっごく嬉しい! ママ以外の誰かの手を握ったのも、初めてなんだよ?」

「────はい?」

「いい? 弟くん。私のことは、ケイティでも、ケイトお姉ちゃんでも、好きに呼んでいいからね? ただしキティはだめ! 呼び間違えたら、たぶん一時間くらいは許さないから!」

「ん、んん──?」


 ケイティナは最後に妙な戯言を口走ると、照れたようにくしゃりと笑った。

 どういうことですのん?






────────────

tips:〈神の落とし子〉


 デーヴァリング。

 神性保持者。

 神話の時代の残り滓。

 この種族に言葉の壁は存在せず、瞳に金色を宿すのが特徴。

 あらゆる言語を直感的に体得し、自らの意思を万物万象へ不自由なく伝えることが可能である。

 神と人が交わった末の結晶であり、現代では疾うの昔に絶滅したと考えられている。

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