第99話 そのざわつきはコドクと共に

 色々と物思いに耽っていたためだろうか。目を覚ましたのは普段よりも二十分ばかり遅い時間だった。

 と言っても、別に焦る事は特に無い。芳佳が来てから少し早い時間に起きるようになっていたし、そもそも職場から家までかなり近い。遅刻するとすれば、それこそ九時前まで寝過ごさないといけないくらいなのだ。

 俺はだから、目覚まし時計の示す時間を、落ち着いた気持ちで眺める事が出来ていた。布団の中が、普段よりもひんやりしているのを感じてしまったが。


 部屋には芳佳の姿は無かった。その事に気付くと、心臓が不規則にうねる。だがこの唐突な動悸は、俺に吐き気をもたらすには至らなかった。テーブルに朝食と書置きが鎮座されている事に気付けたからだ。


――直也君へ 現場に向かうのに時間がかかるので、私はもう出かけますね。朝ごはんは用意していますので、温めて食べてください 芳佳


 裏の白いチラシで作られた即席のメモ帳には、手書きでそのような事が記されていた。少し角ばっていて、癖のある文字ではある。だけど眺めているうちに、女性的で芳佳らしい文字だと俺は素直に思っていた。

 そしてその脇には、メモの通りに食事が置いてあった。お茶碗によそわれた炊き立ての白米とベーコンを添えた目玉焼き。そして刻んだ大根の葉を散らした味噌汁。俺はきちんと張られたラップを外し、順繰りに電子レンジで温めたのだった。


 その後の仕事自体は、取り立てて語るような内容は無い。木幡さんもレオポン藤原も、蒲生と言った他の同僚や上司先輩たちも、まぁ普段通りだった。

 普段通りでは無かったのは、ただ俺だけだったように思う。何しろ、仕事が終わってから年の近い男性社員たちに片っ端から「一緒に飲みに行かないか」などと持ち掛けてしまったのだから。

 結局のところ、誰も俺の誘いには乗らなかった。不思議な事に、俺はがっかりしつつも同時に安堵してもいた。相反する感情を同時に抱く事もあるのだと、この歳になって思い知らされた。

 そんな不思議な感覚を味わっていたのも短い間だった。すぐに落ち着きを取り戻し、いくらか理性的な考えが浮かんできたのだから。

 そもそもの話だ。この俺は、和泉直也という男は社交的な気質の男などではない。むしろぼっちの陰キャであるくらいだ。何の因果か営業マンになり、営業トークを駆使すると言ってもだ。

 ともあれそんな陰キャ野郎から誘いを受けたとしても、普通は戸惑って困惑するのが関の山だろう。そんな簡単な事は、中学生でも解るはずの事だった。


 俺が何故あのような奇行に走ったのか。それは一人っきりの暗い部屋に戻る事が怖かったからに他ならない。

 我ながら情けない話だとは思う。大学を出てからずっと、八年近く一人暮らしをしていたというのに。その状況に、一時的だが戻るだけではないか。

 芳佳は単に仕事の兼ね合いで出張して、それで帰りが遅くなるだけだ。家出したとか、別れたなどという悲しい出来事は何一つ起きていない。それなのに、ここまで戸惑うとは……本当に情けない話だ。

 とはいえ、一人であるという事を思うと、頭と胸の奥がざわついてくる。内部に小さな蟲が集まり、ひしめき合って蠢いているかのように。

 やはり気を紛らわせるために、寄り道するのもアリかもしれないな。

 会社を出た俺は、ビジネスバッグを携えたスーツ姿のまま、駅周辺の繁華街の方へと繰り出した。夜もなお明るい繁華街の事だ。俺の心のざわつきを癒し、そうでなくとも忘れさせるような何かはきっとあるはずだ。

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