第95話 狐娘、単発バイトについて報告する

 あ、そうそう。俺が落ち着いたのを見計らって、芳佳は思い出したように口を開いた。柏餅を何処へ持って行こうかと少し思案していたけれど、結局後で片づけるつもりなのか、テーブルにちょこんと置いてあった。


「あのね直也君。実は私、明後日ごろから単発のバイトもやるように誘われたの。メメトさんに……持ち掛けられたのよ」

「単発のバイト?」


 芳佳の宣言に、俺はあからさまに首をかしげていた。先程メメトの名が出ていたのはそう言う事だったのかとは思っていた。だけどそれ以外の部分で、新たな疑問が浮かんだ。


「だけど芳佳ちゃんはさ、元々お店の売り子さんをやってるんでしょ? それなのに他の単発のバイトとかって、それって大丈夫なの?」

「その辺は大丈夫よ。というかメメトさんも、既に店長に話を付けているみたいでね」


 目を伏せる芳佳の表情は確かに物憂げだった。俺はアンニュイな気持ちになるというよりも、むしろメメトの存在を不気味に思う方が強かった。掴み所の無い女妖怪というイメージは初対面の頃からあった。だが先程の芳佳の話で、そのイメージがより強化されてしまったではないか。

 バイト先の店長にも単発バイトの話を先んじて行っているなんて、それこそ外堀を埋めるような行為じゃあないか。だけどあのメメトならば、上手く丸め込む事も出来そうだし。件のやり取りの不気味さに震えあがっていると、芳佳は笑みを作って言葉を続けた。


「大丈夫よ直也君。そんな顔をしないでちょうだい。私たち妖怪は、人間たちに較べて副業とかそう言うのがごく当たり前なのよ。やっぱり、長く生きるからなのかもしれないけどね。

 それにもう、私もメメトさんの誘いを受けるって決めてるの」


 だから大丈夫。芳佳は俺の顔をじっと見つめ、念押しするようにそう言った。そんな芳佳の顔をまじまじと見つめながら、俺は何かを言おうとした。言葉なんて出てこなかったけれど。


「メメトさんの誘いを受けたんだ。俺はてっきり……」


 誘いを蹴ったんじゃあないか。そうでなくとも、誘いを蹴ろうとして難儀したのではないか。そんな俺の言葉を遮り、芳佳は更に言葉を紡いでいく。


「別に、私はあのひとに脅されたり、誘導されたりしてバイトの手伝いを引き受けたわけじゃあないわ。だけど、直也君と一緒に暮らすにあたって、やっぱりもう少しお金が必要かなって思っただけなのよ」


 お金が必要。この言葉は妙な重みを伴って俺の心臓に迫って来た。芳佳はこれまで何も言わなかったし、俺だって頑張って稼いでひもじい思いをさせていないつもりだった。だけど芳佳が裏でそんな事を思っていたとは。俺は自身の不甲斐なさを突きつけられたような気がして、胸が苦しくなってきた。何よりも、芳佳を不安にさせた事も堪える。

 そんな俺の感情の動きに気付いたのだろう。芳佳は微笑みながら続けた。


「それにね、単発でも他の新しい仕事をしたら……」


 喋っていたはずの芳佳は、ふいにハッとしたような表情を浮かべると、言葉尻を濁してすぐに黙り込んでしまった。丸く見開いた瞳には、何処か申し訳なさと気まずさが浮かんでいる。何故彼女はこんな表情を見せるのだろうか。

 何を言おうとしたのか。何であんな表情を見せてしまったのか。俺がその事を問う前に、芳佳は再び口を開いていた。先程とは異なる、少し取り繕った笑みを浮かべながら。


「そんな訳だから、私もこれから少し忙しくなるの。状況によっては、泊りがけの仕事になる事もあるんですって。だからその、直也君を独りにしちゃう時もあるから、それだけは知っていて欲しいなって思ってね」

「あ、うん。そうなんだ……」


 単発バイトで泊りがけの仕事もあるだと――? 芳佳の申し出に驚いた俺は、ただただ彼女の顔を見つめる事しかできなかった。

 彼女が泊りがけの仕事を行うなんて言われた日には、彼氏ならばそれを止めるのが普通の事なのかもしれない。しかしメメトが絡んでいるのであれば、俺が何を言おうと阻止できない気がした。

 それに何より、件のバイトを行う事を、芳佳が望んでいるのではないか。そう思うと、無碍にやめろとは言えなかったのだ。

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