第89話 可愛い義妹とふいの来客:芳佳視点

 店長とはぎこちない会話を交わした瞬間もあったけれど、その後の仕事は特に変わった事は無く、仕事終わりの時間まで普段通りに過ぎていった。


 バイトを終えた私は、この後どうしようかと軽く考えていた。直也君は連休で仕事が休みだから、早く帰った方が彼も喜ぶかな。だけど今日はカレンダー上は平日だから、近所のスーパーで安売りがあったはず。

 あれこれと考えが浮かんでは消えていたんだけど、いざお店を出ると、そうした考えたちは全て吹き飛んだ。


「やあ芳姉! 今帰り、帰りでしょ!」


 お店の入り口付近で待ち構えていたのは、チワワ妖怪の妹分のスコルだった。派手な服装や巻き毛の金髪はいつも通りで、彼女は私を見ると犬歯を見せながらにっと笑った。


「あらスコちゃん。確かにバイトは終わった所だけど……」


 私がそう言う間にも、スコルは私ににじり寄り、ぐっと手首を掴んできた。

 決して乱暴な動きなどではない。だけど思いがけない程に力強い動きで、振りほどけそうにはなかった。


「それじゃあ芳姉。一緒に団地に帰ろ」


 言い切ってから、芳佳は軽く首を振った。水滴を跳ね飛ばす犬のそれとほぼ同じ動きで。


「あ。間違えちゃった。芳姉は今直兄の所で暮らしてるから、団地に帰るって訳じゃあないもんね。団地に行こうって言った方が正しかったかな」

「だ、大丈夫だよスコちゃん。団地に行くにしても、帰るにしてもね」


 だから取り敢えず、手を放してくれるかな。私が申し出ると、スコルは素直に手を放してくれた。スコルは相変わらず気が早い所はあるけれど、素直な良い子であるところは変わっていない。そう思うと、私はホッとした気持ちになっていた。

 団地に向かう事になったから、もちろん直也君には連絡を入れておいた。そうしたら、向こうも向こうで弟の洋一君が遊びに来ていたらしい。だから、私が少しばかり団地に留まっていても問題は無いってこと。タイミングがこんなに重なるのは珍しいなとは思ったけれど。


 スコルに連れられて団地に舞い戻ると、すぐに平坂さんと出会う形になった。

 平坂さんは、急にやって来た私を見ても、特段驚きはしなかった。先々週くらいに、ふらりと遊びに来ていたからなのかもしれない。それかもしかしたら、私が今ここに来る事を解っていたからなのかもしれない。平坂さんは何百年も生きている天狗だから、私たちよりも勘が鋭い所があるし。


「やぁ芳佳ちゃん。しばらくぶりだね、元気にしているかな?」

「あ、はい。私はすこぶる元気ですよ、平坂さん」


 平坂さんに問われ、私は少ししどろもどろしてしまった。彼女の質問はシンプルだった。だけど暗い湖のような瞳が、私の心の奥底を覗いているように思えて、何処か後ろめたさを感じてしまったのだ。

 良かった良かった。平坂さんはおおらかな様子でそう言っていた。私は少しほっとして、彼女を正面から見つめる事が出来た。


「一緒に暮らしている和泉君は好青年だとは思うけれど、いかんせんこれまでの暮らしとは違うから……芳佳ちゃんもそろそろ疲れが出てきていないか、ちと心配だったんだよ」

「そんな……大丈夫ですよ」


 言い返す私の顔は、あからさまに赤面していたのだと思う。前に平坂さんに会った時は、ちょっとメンタルが弱っていた時でもあったから。

 そのメンタルも、最近持ち直してきていた……と思っていた所だったのに。心配されると、また心配されていた時のメンタルを思い出すんじゃあないかしら。私はちょっと身構えた。自分の心の動きを、見定めようとしていた。


「ああそうそう。芳佳ちゃん。実は今日は、君にお客さんが来ているんだよ」

「え、そうなの?」


 驚いたせいで思わずため口になってしまった。それにしても、私に会いたいひとって誰かしら。そう思っていると、平坂さんの背後からすっと小さな影が飛び出してきた。


「皆さんごきげんよぅ。松原さんも、お変わりないですかねぇ」


 その影は、私に会いたいという客妖きゃくじんは、管狐のメメトだった。

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