第88話 バイト先での上の空:芳佳視点

っちゃんどうしたの。ぼーっとしていたみたいだけど」


 私に声をかけてきたのは、化け狸の難波店長だった。基本的には気さくで明るい妖だけど、流石に女子店員の肩や背中にうっかり触れるような事はしない。皆を元気にするような陽気さと、細やかな気遣いが出来る心を併せ持ったひとなのだ。

 とはいえ、私は難波店長の問いかけにビクッと身体を震わせ、居住まいを正した。ボーっとしていたという自覚はあった。もしかしたら、そのせいで何かミスでもしてしまったのかもしれない。それか、やらないといけない仕事を一部忘れていたとか?


「す、すみません難波さん。私、何か……」


 気付けば私は、上目遣い気味に難波店長を見つめていた。

 団地のあるじである平坂さんは、私の保証妖ほしょうにん後見妖こうけんにんのような立場ではある。だけど、そんな平坂さんがいてくれるけれど、基本的には私は後ろ盾のない、取るに足らない野良妖怪に過ぎない。

 身分ある店長の心次第で、馘にされる可能性だってあるのだ――そう思うと、心がざわついてしょうがなかった。正直言って怖かったのだ。

 難波店長は黙っていた。困ったような、何処か憐れむような眼差しを、静かに私に向けていた。


「いやいや松原さん。そんなに怖がらなくていいよ。ただ……少しぼーっとしているみたいだったから、気になっただけさ。もしかしたら、具合が悪いとか、そうでなくとも何か悩みとか不安でもあるのかなと思ってね。

 普段の松原さんは、真面目に仕事を頑張ってくれるから」

「……いえ。少し考え事をしていただけですので」


 難波店長の言葉に、気付けば私は素直に頷いていた。そうさせるほどの雰囲気と妖徳、そして力が難波店長にはある。

 難波店長は私と同じく一尾だけど、妖力の保有量が私とほぼ同じという訳じゃあない。化け狸は妖力が増えても、尻尾の数が増えるわけでは無いからだ。不思議だし何となく不便だと思ってしまうのは、きっと私が狐だからなのかもしれない。

 考え事か。難波店長は私の言葉を繰り返し、それからこちらをじっと覗き込んだ。


「確かに松原さんも、色々と心配事とかもあるだろうね。風の噂では、ニンゲンの男と同棲し始めたともいうし」

「べ、別に直也君は……彼は何も悪くは無いんです!」


 ニンゲンの男。妙に突き放すような難波店長の言葉に、気付けば私はいきり立ってしまった。ニンゲンの男。いかにも粗野で野蛮な存在だと言わんばかりの難波店長の物言いに、苛立ちを覚えてしまったのだ。

 実際には――直也君の言動や態度に、私だってそこはかとない苛立ちや焦燥感を抱いた事があるというのに。

 申し訳ありません。冷静さを取り戻した私は、もう一度難波店長に謝った。


「彼は真面目な人なんです。営業マンの花形としてお仕事も頑張ってらっしゃるし、私の事も、狐だと解った上で愛して下さるんですから……」

「ああ、解った。解ったよ松原さん」


 私の言葉を聞いた難波店長は、肩をすくめて手を挙げながらそう言った。君がそこまで言うのなら、直也君とやらは良い男なのだろう。付け足された難波店長の言葉は、本心からのものとは思えなかった。むしろ何というか、私をなだめるために放っただけの言葉のようだったのだ。


「だから別に、彼の事じゃあないんです。ただ……夢見鳥サツキという女の事が気になっただけです」


 気が付けば、私は考え事の内容について口にしていた。それこそしょうもない話だから、難波店長に話すつもりなんて無かったのに。

 とはいえ、口にしたからと言ってその事を悔やんでいる訳でもない。直也君の話題から離れる事が出来て良かった、とさえ思っているほどだ。


「夢見鳥サツキ、だって。これはまたけったいな名前だなぁ。なんだい、女優さんか何かかい?」

「女優じゃあなくて動画配信をなさっているそうなのです。ただ……本人はアイドルを気取っているので、ある意味女優に近いかもしれませんね」


 私がそう言うと、難波店長はしばし思案するような表情を浮かべていた。それから私の方を見やり、あっけらかんとした笑みを見せた。


「そうか……ああだけどごめんね松原さん。配信者とか何かと言っても、俺にはあんまりピンと来なくてさ。ははは、オッサンだからかな、若い子が人気のモノにはとんと疎くなったらしい」


 難波店長は夢見鳥サツキの事を、あの何処か禍々しいアイドルの女の事を知らない。その事を知った私は、正体不明のに包まれていたのだった。

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