第78話 残り香と狐の憂鬱:芳佳視点
※
ふと目を覚ましたけれど、部屋の中はまだ暗くて、直也君はもちろん隣で眠っていた。蛍光塗料が塗られた目覚まし時計の針に目を凝らすと、二時三十五分ごろを差していた。暗くて、直也君が寝ているのは当然の事だ。まだ夜中で、しかも丑三つ時なのだから。
「本当に、私ってどうしちゃったんだろう……」
直也君を起こさないように気を付けながら、それでも私は呟いていた。直也君は起きない。私に背を向けたまま、淡々と眠っていた。
事の発端は、八時間ほど前にさかのぼる。仕事が終わった直也君を出迎えたんだけど……直也君から、見知らぬ女の匂いが立ち上っていたのだ。それも、私が大嫌いな柑橘類の香りと共に。
私は驚いて、思わず問い詰めてしまったんだけど、それがいけなかったんだと思う。直也君は夢見鳥サツキとかいう女に絡まれて、そのせいであの女の匂いがこびりついたという事だった。
向こうから一方的に絡まれただけなんだ。申し訳なさそうに直也君が言ったあの時、私はその言葉を信じるべきだったのかもしれない。だけど、申し訳なさそうな表情の裏に、私に対する後ろめたさを抱いている事に気付いてしまった。それと共に、あの女に何がしかの関心を寄せている事にも。
だから私は、ヒートアップしてしまったのだ。
「ひどいわ直也君。私が傍にいるのに、他の女に目移りするなんて」
「私、直也君と一緒ならそれだけで良いって思ってるの。だから元の団地を離れて、それで一緒に暮らしているのよ。他の事を棄てても構わないって、思っているのに」
「それなのに、直也君は私を蔑ろにするの? 私、直也君に棄てられたら生きていけないんだから……!」
今思えば、幼稚で支離滅裂なヒステリーを起こしてしまったのだ。
私はその時、確かに悲劇のヒロインという立場に酔い痴れていたんだと思う。言いたい事だけ言って泣き崩れて、それで直也君に宥めて貰った。ああだけど、直也君の瞳は醒めていて、いっそ軽蔑の色だって浮かんでいたかもしれない。糞面倒なメンヘラ女め、なんてね。
その後はどうにかして夕飯を食べて……それでベッドの中でメイクラブ模したんだけど、これまでと違って嬉しくも楽しくもなかった。直也君は優しくしてくれたけれど、何というか「こいつに付き合っていればまぁ機嫌も直るだろう」みたいな気持ちなんだろうなって思ってしまった。
ああどうして。何でこうなったんだろう。あの屋根の上でつがっていた猫たちが羨ましい。私も子供が欲しい。力の弱い妖狐が、人間の仔を妊娠すると危険だって聞くけれど、だけどそれでも直也君の仔を妊娠してみたい。そうすれば……本当の意味で直也君との繋がりができるもの。
「……や……ん」
直也君の背中がもぞりと動き、くぐもった声が聞こえて来た。私はびくっと身を震わせ、それから狐耳(言い忘れていたけれど、私はキツネの姿に戻っている。メイクラブの最中は、もちろん頑張って人型になっているけれど)をぺたりと伏せた。
直也君はただ寝言を言っているだけだった。眠っているのだ。寝るべき時間なのだ。
そう思った途端に、私も冷静な気持ちが戻って来た。一体何なんだろう。私は何をじりじりと焦っていたのだろう。
明日は仕事をさぼって団地に行ってみようかな。平坂さんやスコちゃんに会いたい。もしかしたら、平坂さんに相談したら、何かアドバイスをくれるかもしれない。
そう思って目を閉じると、少しだけ気分が楽になった。
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