第77話 アイドルと思わぬ告白

「夢見鳥さん。あなたもお忙しいでしょうに、何だって僕なんぞに声をかけてくださったんですか」


 互いに買い物を終えた俺たちは、スーパーの外で向き合っていた。

 スーパーの中で立ち話しても構わなかったのかもしれないが、そんな事をやってのける胆の太さは相変わらず持ち合わせていない。そう思うと、マダムの皆様は強いと思う。やはり人生経験の差なのだろうか。

 ちなみに十キロの米袋は、どうにかしてビジネス用のリュックに収めておいた。普段は通勤用の鞄を持ち歩いているのだが、その辺は俺も抜かりなく準備したのである。

 なお、夢見鳥さんはオレンジジュースやらマーマレードジャムやらが入ったレジ袋を片手に提げている。レジ袋には、先程まで俺たちが買い物をしていたスーパーのロゴが、左下の方に申し訳程度に印字されている。アイドルだからそう言う所もケチケチしないんだな。芳佳だったらエコバッグかレジ袋(それもホームセンターで購入したやつだ)を持参しているだろうな。俺はそんな事をついつい思ってしまった。


「ふふふっ。和泉さん。僕だなんて、自分を卑下する必要はありませんわよ」


 俺の言葉に、夢見鳥さんは小首を傾げながら笑った。その姿を見、その声を聞いているうちに、俺は心臓がうねるのを感じた。感じてしまった。

 でもそれは、彼女がアイドルで、しかも大人びた美女だからなのだろう。アイドル稼業は存外苛酷だという。声が綺麗だというのも、それこそ喉のケアとか発声の練習とかで培っている物なのかもしれない。

 ともあれ、俺はドキリとしてしまったが、別にやましい意味なんて無いはずだ。

 いつの間にか、俺は心の中で、この場にはいない芳佳に対して、必死で言い訳を考えていた。

 その間に、夢見鳥さんは俺に近付いていた。鮮やかな緑のメッシュが入った黒髪が、風にあおられてフワフワと広がっていく。その様はまるで、蝶が羽を広げたかのような優美さを具えているではないか。

 気が付くと、彼女は俺のすぐ傍にいた。ああ、それこそ互いの息がかかるほどの距離である。しかも彼女は女性としてはかなり長身で、目線も俺と数センチほどしか変わらない(断っておくが、俺の背が低いという訳でもない)


「……本当の事をお話しますね。私、ずぅっと和泉さんの事を探し求めていたんですよ」


 夢見鳥さんの、しっとりとした吐息と、切なげな声音を、俺は確かに感じ取っていた。彼女の吐息からは、いつかのように柑橘類の青臭くも爽やかな香りが立ち上っている。それは彼女が付けている香水か、彼女自身の体臭かもしれない。

 爽やかなのに何処かむせかえるような香りだ。俺自身、軽い眩暈を感じながらも、夢見鳥さんの姿をしっかりと見据えていた。


「夢見鳥、さん。一体、何を仰って……」

「私には初めから解っていたの」


 そこまで言うと、彼女はよろよろと俺の方に倒れ込んできた。だがそれこそが、彼女の計略だった。その事に気付いたのは、とっさに腕を伸ばして彼女を支えようとした直後の事だ。

 夢見鳥さんは、さも当然のように俺の胸元にしなだれかかっている。ダメ押しとばかりに、空いている方の右手を俺の背に回しながら。

 こうしたボディーランゲージを俺は知っている。芳佳が、時にこうして俺に甘えてくるからだ。野良猫がつがっているのを見てからは、尚更に。


「あなたは私ので、無くてはならない存在だってね。ええ、私とあなたは運命にあるんだから」

「それは――」


 うっとりとした口調で語る夢見鳥さんに、俺は戦慄した。彼女の、昏い光を宿す瞳には、他ならぬ狂気が宿っている。その事に気付いたからだ。

 俺はだから、目の前の女性が恐ろしくなって、反射的に突き放そうとした。

 ところが夢見鳥さんもその動きに気付いていたのだろう。俺が突き飛ばさずとも、彼女はさっと身を引いて離れてくれた。安堵した半面、何処か物足りなさを感じたのは――きっと気のせいだ。俺には芳佳がいるのだから。


「夢見鳥さん!」


 脳内で首をもたげる奇妙な感情に目を背け、俺は声を張り上げた。視界の端で、幾つかの人影が立ち止まったような気がしたが、気にする暇などなかった。


「確かあなたはアイドルですよね。アイドルはイメージが大切なお仕事だと存じております。場合によっては恋愛禁止のルールさえあるんですよね。だというのに、俺に憑き纏っても大丈夫なのですか?」

偶像アイドルだから衆愚の……純粋で愚かな民衆のルールに応じなければならないなんて、そんなおかしな話はありませんわ」


 妙に古風でいかめしい物言いをしたかと思うと、夢見鳥さんはさもおかしそうに笑い始めた。俺が目を丸くしている間に、彼女は言葉を続ける。


「和泉さんも、日本神話やギリシャ神話の神々の事はご存じでしょう? 神々たちも下々の者から信仰されていたけれど、だからと言って神らしく超然としていた訳ではないのよ。むしろ彼らは奔放で、人間臭いほどだったもの」


 だからね。そう言って夢見鳥さんはにたりと微笑む。美人なのに、いや美人だからこそ、禍々しい笑みに見えるのは気のせいだろうか。彼女の周囲を象るように、後光めいたものが見えるのも、気のせいのはずだ。


偶像アイドルたるこの私も、自由に振舞ってもばちは当たらないわ。いいえ、むしろ私は偶像アイドルですから、ばちを当てる側かもしれないわね。

――ともあれ和泉さん。私は諦めないわよ。たとえあなたの傍に、薄汚くて獣臭い野良畜生がいたとしてもね」

「夢見鳥さん、ちょっと――」


 一体彼女は何を言っているのだろうか。そう思って声をかけてみたものの、彼女は颯爽とした足取りで、俺の前から姿を消してしまった。

 十キロの米袋を担いでいる俺は、その夢見鳥さんを追いかける事はままならなかった。子供が出鱈目に振り回す網を、優雅に舞いながら逃れるアゲハチョウのように、夢見鳥さんは立ち去ってしまったのだから。

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