第79話 狐の口づけとかすかな戸惑い

 それじゃあ行ってきます。俺は今朝も、芳佳に挨拶を済ませてから玄関を出ようとした。もちろん、俺が提げている通勤鞄の中には、芳佳が作ってくれたお弁当が入っている。最近彼女は少し情緒不安定で、お弁当の出来とかもそれに左右される事が実はある。しかし俺も料理はさほど上手くないし、何よりアレな時でも食べられない代物という訳でもない。芳佳自身も、この所俺に甲斐甲斐しく尽くすのを楽しみにしている節が見え隠れしていた。

 だから俺は、芳佳の作るお弁当を持って行くという選択肢しかないのだ。彼女の作る食事では、相変わらず体調不良も起きないし、コストもかからないし。


「待って、直也君」


 立ち去ろうとした丁度その時、おずおずと芳佳が声をかけて来た。切羽詰まった彼女の表情に、俺は思わず立ち止まる。

 次の瞬間、彼女は俺の方に飛びついてきた。飼い犬が二本足で立ちあがって飼い主に飛びつく。芳佳には悪いがそんな映像が、俺の脳内に浮かび上がってしまった。


「んむ……んちゅっ……」


 背伸びして顔を合わせたかと思うと、芳佳は何と俺の唇に自身の唇を重ねていた。彼女の柔らかな唇は、貪るように俺の唇の上で蠢いていた。イヌ科の獣は親愛のあかしとして口許を舐めると言うが、その仕草に似ているようにも、全く異なっているようにも思えた。


「ぷはっ。はーっ、はーっ」


 そして唐突に、芳佳の口撃から解放された。ほんの数秒の間の出来事だったのかもしれないが、ずっと長い間唇を貪られているように感じられた。

 唇を拭うのも忘れて、俺は呆然と芳佳を見下ろす。彼女はもう背伸びなどしていない。上目遣い気味の瞳は、熱と期待で潤んでいた。口許には薄く、恍惚の笑みをたたえながら。普段の彼女とは思えぬ、妖艶な姿に俺はたじろいでいた。いや、芳佳がこんな表情をする事はもはや知っている。しかし、朝の日差しに満ち満ちたこの時間帯に、こんな姿を見せる事に、俺は戸惑っているのだ。罪悪感と背徳感が、背中から立ち上って来るのを感じてもいた。

 ややあってから、芳佳の表情が一変する。普段通りの、可愛らしくもしっかり者の女の子の表情に戻るのだ。先程までの妖女めいた雰囲気などは、この時には雲散霧消していた。

 それでも俺は、芳佳が普段通りの表情を見せると、心底安堵するのだ。ほのかに勿体ないような気持ちになりはするけれど。


「うふっ。それじゃあ行ってらっしゃい直也君。お仕事大変かもしれないけれど、今日も頑張ってね」


 あの淫靡な動きを見せた唇から紡がれたのは、やはり普段通りの言葉である。俺たちが一線を越える前から幾度と交わされてきた、健全極まりない言葉だった。

 近眼が進んだふりをして、俺は目をすがめた。芳佳の表情を見定めようとしたのだが、明るく清楚な少女がそこに佇んでいるだけだった。


「ありがとう芳佳ちゃん。言うて芳佳ちゃんも仕事があるだろうから、頑張ってね。でも、無理はしないようにね」


 時と場合によっては、「頑張れ」という言葉もヒトを追い込む凶器になる。いつだったか藤原が言っていたのを、俺はふと思い出してしまった。あんなやつをわざわざ思い出さなくても良いのに。

 藤原の澄まし顔を思い出して渋い表情になっていたのが気になったのだろう。芳佳は小首をかしげて俺を見つめていた。


「大丈夫。お仕事なんてほんの片手間みたいなものなんですから。だけど直也君。直也君が心配してくれてる事が解って、とっても嬉しいわ」


 芳佳は俺の表情は特に気にならなかったらしい。俺の気遣いに喜んでくれていたのだが、俺も芳佳の笑顔が見れたから心が和んでいた。

 しかし、彼女は再び真剣な表情になった。琥珀色の瞳の真ん中にある瞳孔が、朝の日差しの中で針のように鋭くなっている。


「直也君。くれぐれも変な虫をくっつけないように、ね。私、それだけが心配なの」


 芳佳の声は、普段よりもいくらか低く重たいものだった。ただならぬ雰囲気を感じ取った俺は、不明瞭な声を上げながら、そのまま玄関を後にしたのだった。

 ああそうだ。俺はこの時、芳佳の声に気圧された。情けないが、それは紛れもない真実だ。

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