中編
第75話 昼下がりと割引券
気付けば四月も中頃に差し掛かっていた。
例年よりも早く咲いた桜はとうに葉桜となり、職場でもそろそろゴールデン・ウィークの話題が持ち上がるようになり始めていた。
社会人になれば月日が経つのは速く感じるとよく言われているが、まさにその通りだった。土曜日の昼下がり、腹ごなしに床に寝ころびながら、俺はそんな事を思っていた。
「くす、直也君ってば、おネムになったんだねぇ……」
かすかに笑い声を漏らしながら、芳佳がさも当然のようにすり寄って来る。狐形態ではなくて、人型のままで、だ。俺もうっすらと微笑みながら、彼女の背中に腕を回し、ついでに尻尾の毛並みを堪能する。尻尾の先をくねらせつつも、嫌がる素振りはない。芳佳も満更でもないのだ。
「うん。食後は昼寝をした方が具合が良いからね。それに今日は土曜日だから、別に大丈夫だろう?」
「まぁね」
応じる芳佳の声もまた、ふんわりとしたものだった。どさくさに紛れて彼女は俺に密着し、肩のあたりに頬ずりをしている。普通に可愛くて、ドキドキしてしまう。
「お買い物なら朝の間に済ませておいたから、別に大丈夫よ。そもそも、土日ってあんまり品物が安くならないのよ。あとは、そろそろお米を買っておいた方が良いかなって思うんだけど、割引券の期間じゃあないし」
「お米なら俺が買うよ!」
残り四分の一ほどに目減りした米袋を見やりながら、俺は力強く言った。
「てかさ、スーパーで売ってるお米って、五キロとか十キロのやつでしょ。いくらママチャリで行き来すると言っても、芳佳ちゃんにはお米を買うのは荷が重いんじゃあないかな」
俺は元々一人暮らしだったから、お米は五キロ入りの物を一か月に一、二回購入する程度である。最近は芳佳と同居しているから、お米が減るスピードはかつてより少し速まっている。
しかしそれよりも、重大な問題がある。人間の少女の姿を取る芳佳であるが、そもそも彼女はキツネなのだ。体重も五、六キロ程度しかない。そんな彼女が五キロ入りのお米を買うとしたら、文字通り重労働になるではないか。それ以前に持って帰れない恐れもあると思っていた。
俺の言葉に、芳佳は寝ころんだまま思案顔となった。否定したいけれど否定できない。そんな表情だった。
「私は普通のキツネじゃあなくて妖狐だから、少しは力持ちなんだけどね。だから、サラダ油とかも二本くらい一緒に買っても、ちゃんと持って帰れるわ」
芳佳はそうは言ったものの、俺の方をひたと見やって言葉を続ける。
「だけど、直也君がそう言ってくれるのなら、お言葉に甘えても良いかしら」
「もちろんだとも!」
絶妙な塩梅でもって上目遣いになった芳佳が可愛らしくて、俺はとうとう彼女の頭を撫でてしまった。犬猫人間の女子などは、実は不用意に頭を撫でられる事を嫌がる個体も多いという。しかし芳佳は嫌がらず、目を細めて尻尾をパタパタと揺らしていた。それは芳佳がキツネだからではなく、俺を信用しているからだ。そうだと思いたい。
「それじゃあ直也君。あとで割引券を渡すわね」
「うん、解ったよ芳佳ちゃん」
数日後に購入するお米の話を終えると、俺たちは互いに身を寄せ合ったまま目を閉じた。何がどうというわけでは無いが、もはや二人とも深い仲になったのだ。そんな事をひしひしと思っていた。
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