第74話 柑橘の香りとマーキング

「あら嫌だ。直也君、臭うわ」

「え……」


 いつものように仕事を終え、ドアを開けると芳佳が出迎えてくれた。

 だが、俺を出迎えた芳佳は、事もあろうにそんな事を言ったのだ。臭う。これは流石にショックが大きい。薄毛だのなんだのと言われる事の次にショックをもたらすだろう。いや、俺はふさふさだし、まだ二十五だから大丈夫だけど。

 ともかく俺はショックを受けた。それから、申し訳ない気持ちにもなっていた。芳佳を不快に思わせたのではないか、と。

 そしてそんな俺の気持ちは、芳佳にも伝わったのだろう。怒った犬のような表情を見せていた彼女だったが、今はもう叱られる寸前の犬の仔みたいな表情になっていた。


「あ、ええと、違うの。違うのよ直也君」


 慌て、要領を得ない様子で芳佳は語り始めた。その様子を窺いながら、俺はドアを閉めた。パタリ、という平板な音が玄関を震わせる。それを確認してから芳佳は息を吐き、静かに言葉を続けた。


「直也君自身が臭いとか、そう言う意味じゃあないの。ただね――」


 そう言うと、芳佳は半歩ほど俺にぐっと近づいてきた。身長差の影響で、上目遣い気味に俺の顔を見上げる形になっている。瞳孔が針状にすぼまった、獣の目で見つめられ、俺は息を呑んだ。


「メスの匂いがぷんぷんと漂っているわ」

「めっ……メスって……」


 芳佳の言葉に、心臓が烈しくうねるのを俺は感じてしまった。メス、などという言葉の鋭さに、鋭さの原因となった嫌悪と怒りの念に、俺は面食らっていたのだ。

 そうしている間にも、芳佳は俺の傍ににじり寄り、しまいには密着する形となっていた。彼女は難しい表情で俺の襟元を嗅ぎ、ついで尻尾を伸ばして俺のふくらはぎを撫でている。警察犬に絡まれているような、飼い猫にすり寄られているような、そんな感じだった。


「何となく柑橘系の匂いもするわね。あーあ、趣味の悪い匂いだわ」


 やや乱雑に言い捨てると、芳佳はようやく離れてくれた。出会った晩にレモネードを出してくれた芳佳だけど、彼女は実は柑橘類は大嫌いだった。犬や猫が柑橘類を嫌う事はよくあるらしい。芳佳は狐だから、まぁ似たような物だろう。

 柑橘類の匂いという事であれば、俺も心当たりはある。夢見鳥サツキの残り香である。残り香と言っても香水の類であろうが。ともあれ、夢見鳥の肌や紙からは、柑橘類の香りが漂っていたのは覚えている。とても印象的だったからだ。

 夢見鳥と柑橘系の香りとが結びついた理由は二つある。一つ目は、よくあるシトラスやオレンジ系統の香りよりも、やや青臭い感じがしたからだ。草原のような爽やかな香りとも言えるだろうが。

 二つ目は――ああ、そうだ。彼女はあの時俺に近付いてきたのだ。顔と顔を近づけて、妖艶に微笑んで、それで――


「直也君!」


 スピッツのような吠え声が、俺の耳元で炸裂した。いや違う、芳佳の声だった。拗ねたように口を尖らせ、芳佳は俺を睨んでいた。尻尾の毛は静電気を帯びているかのようにことごとく逆立っている。


「柑橘系の匂いを漂わせるメスに、直也君は誑かされたのね。全くもって、由々しい事態だわ。破廉恥じゃあないの」

「ぷふっ……ああ、いや、ごめん芳佳ちゃん」


 破廉恥、という言葉が芳佳の口から飛び出してきたところで、俺は思わず吹き出してしまった。そんな言葉を気にせず使う所が、いかにも芳佳らしくて可笑しかったからだ。

 だけどそれでも、俺は心を込めて謝罪した。破廉恥と言った芳佳を笑った事、そしてメスの匂いとやらを付けたまま帰って来た事に対して。


「本当にごめんね芳佳ちゃん。芳佳ちゃんも鼻が良いから、俺に変な匂いが……他の女の匂いが付いていたら嫌だよね」


 先にお風呂に入るよ。そう言った俺の申し出を、芳佳はしかし認めなかった。


「別にお風呂なんて、お夕飯の後でも良いでしょう」


 そう言うと、芳佳は今再び俺の許に近付いてきた。先程とは異なり、俺の背に手を回し、抱きすくめる形を取りながら。

 芳佳は俺を見上げなかった。ただただ、俺の胸から首の付け根あたりに、しばらく頭をこすりつけていた。何秒ほどそうしていたのかは解らない。ともかくややあってから、芳佳は顔を上げた。


「でも、他の女の匂いが――」

「別にお風呂で匂いを落とさなくて良いの。だって私が、マーキングして匂いを上書きしてあげるんだから、ね」


 芳佳はそこまで言うと、頬を動かして笑みをその面に浮かべた。あどけなくも妖艶で、恐ろしくも魅入られてしまう。そんな不可思議な笑みだった。

 妖狐や女狐は人の心を惑わすと言うが、こういう事で人は惑わされるのかもしれないな。そんな事を思いつつ、俺は芳佳の背を撫でていたのだった。

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