第71話 朝の職場と来訪者の話

「それじゃあ直也君。今週もお仕事頑張ってね」

「うん。仕事も色々とけったいな事もあるけれど……頑張るよ、芳佳ちゃん」


 芳佳と出発前の挨拶を交わすと、俺はそのまま職場へと向かった。

 少し寝坊をしてしまった芳佳だったが、あの後大急ぎで弁当を用意して、そしていつも通りに俺を見送ってくれたのだ。

 確かに、芳佳が俺の為に弁当を作るのも(厳密には芳佳自身の弁当・昼食にもなっているけれど)、ああして出発前の挨拶を欠かさぬのも、いつもの事ではある。

 だけど――昨夜をきっかけに、二人の間を流れる空気は一変した。芳佳は本当の意味で、俺のパートナーになったのだ。そんな思いが頭の中をよぎった。

 いつだったか、料理を用意して待ってくれる芳佳が、若奥様のように見えた時もある。だが今は、それ以上に強く彼女との繋がりを俺は感じていた。芳佳の言動の節々から、そう思わしめるものが放たれていた。


――女性は本能的に、関係を持った男性に対して、より強い愛情を抱いてしまう。その心理こそが、色欲と愛情を分離して考える男性とは異なっているのだ。


 いつだったか、ネットで目にした文章たちが、俺の脳裏に浮かんでは消えた。もちろん人間向けの恋愛コラムであったが、そうした信条の変化という物は、妖狐である芳佳にも当てはまるのだろうか。

 そんな事をぼんやりと考えているうちに、俺は職場に辿り着いていた。


 職場のオフィスは、既にてんてこまいの状態だった。俺よりも早く出社していた同僚たちが資料をコピーしたり、何処かへ電話を掛けたりしている。始業時間から、まだ二十五分ばかり余裕があるにもかかわらず、だ。

 いつもとは異なる光景に、俺は面食らってしまった。何が起きているのだろう、友もちろん思った。

 だから俺は、近場にいた、それも少し手持無沙汰な感じの同僚に、何があったのか問いかけてみた。


「いや、和泉君。俺も何が何だかちょっと解らないんだよ。俺が出勤した時には、皆あんな感じだったから」

「そうか……」


 ところが、俺が質問を投げかけた同僚もまた、詳しい事情を知らないらしい。それはそれで仕方のない事だろう。そう思っていると、俺たちの傍に藤原がやって来た。


「和泉君に守口君。実は朝の早い時間に、営業と面談をしたいという依頼があってね。それでみんな会社案内やら会議室のセッティングやらで忙しいんだよ」

「そう言う事だったんですね、藤原係長」


 流石に係長である藤原は、社内がにわかに忙しくなっている事情については知っていた。営業との面談であれば新規営業であろうか。それとも中途採用か何かの面接になるのだろうか。

 だがそれ以上に、藤原が渋い表情を浮かべている事が、俺には気がかりだった。


「それにしても藤原係長。新しい商談か中途採用の面接か解りませんが、浮かない顔をなさっているんですね」


 俺が呟くと、藤原はゆっくりと首を振りながらため息をついていた。全くもって普段の彼らしからぬ態度に、俺は少し戸惑ってしまう。


「僕も面談を受けた相手については、部長たちから話を聞いているよ。だけどアポなしで面談を取り付けた上にどうにも素性の怪しい輩だから……正直気乗りしないんだ」

「素性が怪しいって、一体どういう事なんですか?」


 守口は屈託のない様子で藤原に問いかけていた。と言っても、俺も同じ疑問を抱いていたから丁度良かったのだが。

 藤原は一瞬難しい表情を浮かべていたが、意を決した様子で口を開いた。


「まぁね、あんまり職業というかそう言うもので偏見を持ちたくは無いんだけれど……どうやら面談を申し込んだのは、ウィーチューブで配信をやっているような若者なんだ。二十歳くらいの、学生と大差ない年齢の三人組さ。そのうちの一人か二人は、アイドルか何かだって言っていた気もするけれどね」


 確かにそいつは胡散臭そうだな。ややたどたどしい藤原の説明に、俺も守口もついつい納得してしまったのだった。

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