第70話 全てが変わった後の朝

 甘く気だるい空気が脳内に居座っている。不思議と不快感のない重たさに頭を揺らしながら、俺はゆっくりと半身を起こした。

 珍しく、今朝は夢を見たという事を覚えていた。ここしばらくは仕事に疲れ、あるいは芳佳と共に眠る緊張の為か、夢なんて覚えていなかったのに。


 俺の見た夢は近未来の夢だった。と言っても、紙媒体が駆逐されただとか、人工知能が幅を利かせているだとかいうアレではない。もっとささやかな、身近な所での近未来だった。

 端的に言えば、芳佳が俺の子供を産んだという夢だ。俺たちはもう夫婦みたいな関係になっていて、芳佳は嬉しそうに俺に子供を見せてくれていた――ああそうだ、覚えているとも。「自分の仔だ」と言い張る芳佳の腕の中にいた赤ん坊は、まるっきり仔猫だったのだ。三毛とキジトラの仔猫だったっけ。

 短いながらも支離滅裂な夢だった。いやまぁ夢っていう物は支離滅裂である事がほとんどだし、夢を見ているうちはその支離滅裂さに気付かないものだ。

 だからこそ、今朝は夢を覚えていて、思い出した夢に対して「何て支離滅裂なんだ」と我ながらツッコミを入れる事になったのだ。

 そもそも俺は人間で、芳佳は妖狐、すなわちキツネである。その組み合わせで、何故仔猫が誕生するというのだろうか。確かに、人間の男と妖怪の女の組み合わせでは、半妖の子供が誕生する事もままあるという。しかしその場合ならば、生まれた仔は母の特徴を受け継ぐ事になる。蛙の子は蛙。狐の子は狐なのだ。

 しかしそれでも、夢で仔猫を見た事には何か意味があるのかもしれない。生憎と夢占いの知識はないが、島崎あたりならば詳しいかもしれない。

 取り留めもない事を考えていた俺は、ベッドから這い出し始めた。違和感に気付いたのはその時だった。


 芳佳の姿が、見当たらないのだ。

 妖狐である芳佳であるが、大抵は俺よりも先に目を覚まし、諸々の準備をして待ち構えている。というよりも、普段であれば俺が目覚めた瞬間に「おはよう、直也君」とあいさつをしてくれるような娘なのだ。

 そんな彼女からのモーニングコールも、そもそも芳佳の気配すらない。

 春先であるはずなのに、俺はひんやりとした気分になっていた。昨夜の事も思い出していた。

日本の異類婚姻譚は、いつかどこかで破局を迎える――そんな考えが脳裏をよぎってしまう。芳佳はもう、いなくなってしまったのだろうか。


「芳佳……? 何処にいるんだい……?」


 気付けば俺の喉から呟きが漏れていた。芳佳。君がいなくなってしまっては、俺はこの先どうやって生きて行けば良いんだ? 実の親も知らぬ孤児であった俺を、それ故に卑屈に過ごしていたようなこの俺を、君はひたむきに愛してくれたではないか。

 だというのに、もしも君が去ってしまったというのならば――それは俺の過ちだったという事なのか。

 その時だった。不明瞭な呻きと共に、俺の傍らで布団がもぞもぞと蠢き始めたのは。膨らんだ布団の蠢きは位置を変え、やがて布団の下に潜んでいた物が文字通り顔を出した。まっ白な毛並みに細長く優美な鼻面と琥珀色の瞳。まさしく芳佳その狐だった。

 芳佳は眠たげに何度か瞬きを繰り返し、一度大きな欠伸をした。それから、少し気恥ずかしそうに俺の方を振り仰いだのだ。


「直也君。私、直也君に呼ばれた気がするんだけど、気のせいかな?」


 何処か気だるげな瞳をこちらに向けて、芳佳は俺に問いかけた。その声もその仕草も、俺の知る普段の彼女と何ら変わりない。

 俺の返答は言葉では無かった。ただただ、倒れ込むように芳佳を抱きすくめていたのだ。


「そこにいたんだね、芳佳ちゃん。俺、俺……」

「何を言ってるのよ、直也君。私はずっと、直也君の傍にいたでしょう」


 急に抱きしめられた事にびっくりしているのか、芳佳がくねくねと身をよじりながらそう言った。その声は笑っているようにも、からかっているようにも感じられた。だが、俺と再び目が合うと、彼女は戸惑ったように目を逸らした。


「それにしても、直也君ってば情熱的でとっても元気なのね。その……昨夜のことがあったのに……」

「あ、うん……それもそうだね」


 芳佳の言葉に、俺はふと落ち着きを取り戻した。

 まぁ要するに、二人ともやる事をやったという訳なのだ。

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