第69話 調べ物と狐の恋慕

 ホンドギツネやキタキツネの繁殖期は冬から春にかけてである。特に十一月から二月の間に雌雄がペアとなり、二月から四月の間にメスは仔狐を出産する。

 ネットで「狐 繁殖期」と調べてみると、およそそのような事を知る事が出来た。冬の終わりから春にかけて恋をし、春から夏にかけて仔猫を産む猫とは、狐の繁殖期はズレているんだな。いやまぁ、実は猫は秋にも恋の季節があるみたいだけど。

 動物の繁殖期と言えば春と相場が決まっていると思っていたけれど、必ずしもそうとも言い切れないのだろうか。まぁ人間とかは、季節に関係なく子供が生まれるし……そんな事を思っていると、真後ろから柔らかな衝撃を感じた。

 背中には柔らかなものが、足許にはフワフワとしたものがぶつかってきたのだ。俺は一瞬身を翻しそうになり、しかしそれを自身の意志で踏みとどまった。もっとも、その間に白い腕が伸びてきて、俺をホールドしてきたのだけど。


「なーおやくん。お仕事でも何でもないのにパソコンに向かっちゃって、一体何を調べてたの?」


 耳元で聞こえてきたのは、もはや聞き慣れた少女の声だった。いや、いつもの声とは違っている。普段の芳佳の声は、もう少し凛とした物だった。それが今は、妙な甘ったるさを内包しているではないか。

 俺は戸惑っていたのだろう。そして芳佳は、俺の戸惑いに気付いたのだろう。甘い囁きの後に聞こえてくるのは、クスクスという忍び笑いだった。セミロングの黒髪が、服越しに俺の背中をくすぐり、彼女の両腕に力が込められる。振り返ればぶつかりそうなほどに寄せられた白い顔からは、少女らしい甘い香りさえ漂っていた。

 いや、確かに、俺は戸惑っているのだ。


「芳佳……ちゃん? ええと、その……何か近くないかい?」


 言葉を選びながら、俺はそう言うのがやっとだった。芳佳の質問には答えてないけれど、そもそも俺は彼女がここまで密着してきた事に驚いているのだから。

 芳佳は俺の言葉を聞くと再び笑った。


「うふっ、直也君ってば照れ屋さんなのね。でも私たち、しょっちゅう同じベッドで寝てるでしょう。それで直也君は、私の事を抱きしめてくれる事もあるから……だからそんなに照れなくても良いじゃない」

「それはそうだけど、それとこれとは話が違うんだよ! 寝るときは、芳佳ちゃんも変化を解いて狐の姿になってるだろう」


 芳佳と同じベッドで寝る事はあるし、彼女を腕に抱きながら眠りに付く事もある。芳佳の主張は確かに事実だ。だが――その時の芳佳は白狐の姿に戻っているのだ。普段は魅惑的な美少女の姿である芳佳だが、それはかりそめの姿である。芳佳は妖狐であるから、やはり本来の姿はキツネなのだ。種類的にはホンドギツネらしいのだが、まっ白な毛並みなので、やや胴長のポメラニアンにも見えなくもない。

 そして不思議な事に、芳佳が変化を解いて狐の姿になると、彼女の事を俺は一匹の動物と見做してしまうのだ。人型だろうと狐姿だろうと芳佳である事には変わりはなく、人格の変化もない。何となれば狐姿でも人語を操るにもかかわらず、だ。

 いずれにせよ、フワフワの可愛い動物だと思えるからこそ、芳佳がベッドに入って来る事も受け入れられるし、思わず抱っこしてしまう事もあるのだ。人間の少女姿だと恥ずかしいと思ってしまうのに、だ。

 人の姿と狐の姿を使い分けている芳佳であるが、彼女としてはどういう感覚なのだろう。変化術などを身に着けていない、人間の身である俺には、彼女の感覚は如何なるものか想像も出来なかった。


「……狐について調べていたんだね、直也君」


 気が付くと、腕を絡めてくっ付いていた芳佳が、俺から少し距離を取っていた。「狐の繁殖! 可愛い仔狐の写真もあるよ!」とか言うアホ丸出しの見出しが躍るブラウザの画面は、芳佳の視界にもバッチリと入っているようだった。

 もはや申し開きも出来ない。俺は正直に、狐の繁殖期について調べていたのだと白状した。

 それを聞いても、芳佳は特に恥ずかしがったり怒ったりしなかった。ただただ、愉快だと言わんばかりに笑うだけだったのだ。


「あはは、直也君ってばそんな事を調べていたのね。でもね直也君。妖狐だと恋の季節は必ずしも冬から春にかけてとは限らなくてよ。一代で妖怪化した妖狐はまだキツネの特徴が残っているけれど、世代を重ねた妖狐は、元々のキツネとは違う特徴も持つようになるんですから」


 そこまで言うと、芳佳は熱っぽい流し目と共に俺にしなだれかかって来た。


「とはいっても、やっぱりこの季節になると人肌が恋しくなっちゃうんだけどね。特に今日は、あの猫ちゃんたちを目の当たりにしちゃったんですから……」


 恋慕と本能に酔い痴れているはずの芳佳の言葉は、それでもなお奥ゆかしさを秘めていた。

 とうとうこの時が来たのか。壊れ物に触れるように、俺は芳佳の肩を両手で支えていた。

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