第68話 猫の恋と狐の目覚め
季節外れの橘の花には驚いたものの、芳佳と一緒に歩いているうちに、俺たちは見知った道に戻る事が出来た。
見慣れた道に俺が安堵の声を漏らすと、芳佳は澄ました表情で告げた。
「直也君。どんな道だって必ずどこかに繋がっているものなのよ。それに私、直也君よりもずぅっと長い間ここで暮らしているの。だからね、近道や裏道にも詳しいのよ」
「あは、そうだね。そうだったよね」
得意げに語る芳佳の姿が何とも可愛らしく、俺はついつい彼女の頬をつついていた。芳佳もちょっと驚くそぶりを見せていたが、表情を見るに満更でも無さそうだ。
少しの間、二人でじゃれ合っていると、ふいに芳佳が真面目な表情を作った。こちらを見つめる瞳には、真剣な光が宿っている。
「この頃直也君も、少しずつ私と距離を縮めてくれている感じがして、とっても嬉しいわ。もう一緒に暮らして長いし、そろそろ――」
次に芳佳が言い出すであろう言葉を前に、俺は知らず知らずのうちに身構え始めていた。芳佳が俺と番になりたい事、伴侶になる事を望んでいるのは俺も知っている。俺は表立って芳佳との関係性を口にしないが、はっきりと言葉にしてほしいと常々芳佳が思っているであろう事も解っている。
解った上で、俺は気付いていないふりをしている、だけなのだ。我ながら身勝手な男だとは思う。メメトさんや島崎にだって、暗にその事を糾弾されているくらいなのだ。それでも、関係性をはっきりさせる事について、俺は漠然とした恐怖感を抱いていた。
恋人や家族、そして兄弟。人と人との関係性に名前を付けたとたんに、人はそれに縛られるのではないか。そして縛られたら最後、その枠組みに収まっているかどうかで一喜一憂し始めるに違いない。
そうした関係性を構築する事が、俺には我慢ならなかった。
その時、俺たちのすぐ傍でとんでもない悲鳴が迸った。俺たちはびくっと身を震わせ、恐る恐る声の主を探る。事件だろうか、事故だろうか。それを目の当たりにしたからには、やはり通報しないといけないのだろうか――
ほどなくして、芳佳が声の主を見つけ出した。彼女はもう緊張したそぶりは見せず、それどころかほんのりと微笑みながら屋根の辺りを指差していた。声の主は猫、いや猫たちだった。三毛猫と茶トラの猫で、茶トラの方は俺たちに尻を向けていたので、オスである事が不覚にも解ってしまった。
俺たちが注目している間、三毛猫は少しの間屋根の上で転げ回っていた。そしてやにわに起き上がったかと思うと、怒り心頭と言った様子で茶トラに猫パンチをかましている。茶トラも茶トラで逃げもせず怒りもせず、ただただ神妙な面持ちでもって三毛猫にどつかれるままだった。
「――さっきの、猫の啼き声だったんだね」
物凄い啼き声だったな。そんな事を思いながら呟いた俺だったが、数秒ほど遅れて気恥ずかしさがこみ上げてきた。茶トラと三毛猫が何をやっていたのか、その事に気付いたからだ。いやまぁ俺も大人だし、別に恥ずかしがらなくても良いんだけど。
「あの猫たち、地域猫じゃあなくて野良猫だったのね」
俺の隣で、芳佳がぼそりと呟いた。地域猫と野良猫は特定の飼い主を持たぬ猫たちであるが、両者には色々な違いがある。最大の違いは、地域猫は避妊手術を受けている事であろう。手術済みである事が判るように、彼らは片耳の先端が切り取られているのだという。そう言えばこの辺りは地域猫活動があるらしく、耳の先端が桜の花びらのようにカットされた猫は、俺も見た事があった。
そして屋根の上にいる猫たちはというと、三毛猫も茶トラも切り取られていない、綺麗な耳の持ち主だった。芳佳の言う通り、地域猫ではない猫たちだ。あるいは、人間たちから地域猫と見做されていても、うかうかと人間に捕まらない猫たちなのだろう。
「まぁ、猫たちにとっては春が恋の季節だもんね。あの猫ちゃんたちだって、好きな相手が出来たから……」
芳佳はそこまで言うと、ふいに言葉を濁らせて口をつぐんだ。見れば頬が火照り、耳まで紅くなっているではないか。
「あと二か月ほど経ったら、あの三毛ちゃんも赤ちゃんを産んで、母親になるんでしょうね。直也君もそう思うでしょ?」
「あ、うん……まぁ、そうだろうねぇ」
同意を求めるかのような芳佳の唐突な言葉に、俺はたじろぎながらも頷いた。茶トラがオスであれば、三毛猫の方がメスである事は明らかな話だからだ。というよりも、三毛猫は九十九パーセントがメスであり、オスの存在はまれだという。
いや、猫の話を振られたから驚いているのではない。猫の話をする芳佳の目が妙にぎらついていて、それ故に俺はたじろいでしまったのだ。
猫の恋は春先だけど、狐の恋の季節はいつだったっけ。芳佳が見ていない時に調べておいた方が良いかもしれないな。芳佳と猫とを交互に見やりながら、俺は静かにそう思った。
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