第67話 桜餅と橘の花

「色々あったけど、お花見は楽しかったね、芳佳ちゃん」

「ええ。スコちゃんも元気だったし島崎さんの奥さんともお話しできたし……平坂さんからはお土産まで貰っちゃったもの」


 芳佳はそう言うと、右手に提げていた紙袋を少し持ち上げた。子供用のお弁当箱がギリギリ入るかどうかというほどのサイズ感の紙袋の中には、パック詰めされた桜餅が四個入っていた。市販の物より小ぶりで手のひらサイズのそれは、もしかしたら平坂さんたちがわざわざ作った物なのかもしれない。


「お花見の後に桜餅って、何か風流な感じがするよね」


 俺の呟きを聞いた芳佳は、紙袋と俺の顔を交互に見やりながら微笑んだ。


「本当に、和の雰囲気って感じで良いわよね。ねぇ直也君。桜餅が気になるのなら、お夕飯の前に頂いても良いんじゃないかしら。日持ちしないから早めに食べて欲しいって平坂さんも仰ってたし、たまにはご飯前におやつを食べても、ばちは当たらないわ」


 少女らしさと何処か所帯じみた雰囲気を同時に漂わせながら芳佳は言う。その真面目な様子が何とも可笑しくて、俺は彼女と見つめ合いながら笑っていた。島崎と出会った時は何となく緊張もしたけれど、芳佳の笑顔を見ていると、それすらも遠い過去の事のように思えた。

 気付けば、前に通った場所とは違う道を二人して進んでいた。俺にとっては見慣れない道なので、少しばかり身構えてしまう。しかし芳佳は特に気にする素振りを見せていない。この道を俺は知らないけれど、芳佳はよく知った道なのかもしれない。

 そう思うと、胸の中で生まれ始めた不安は、すぐに溶けてなくなった。


「あら……?」


 と、芳佳が小さく声を上げて、ふと足を止めた。どうしたんだろう。一緒に歩いていた俺も、歩みを止めた。どうしたの、と尋ねると、芳佳はちらと俺を見てから、視線をスライドさせた。

 彼女の視線の先にあったのは、一本の樹木だった。塀の向こう側からも目立つほどに青々と葉を茂らせ、のみならず白い花が一面に咲き乱れている。星形にまっ白の花びらが開いていて、真ん中は雄しべやら何やらが集まっているために黄色く色づいている。パッと見ただけでは、何の花なのか俺には解らなかった。


「……橘の、花ね」

「タチバナ?」


 何の花だろうか、と考えている丁度その時、芳佳がぼそりと呟いた。聞き慣れぬ花の名と、芳佳の声の低さに驚いた俺は、思わずそのまま聞き返していた。

 俺の声に気付いた芳佳は振り向いたが、その時には普段通りの、控えめな笑みをたたえた表情だった。


「橘ははね、ええと、柑橘類かんきつるいの一種だから、ミカンとか柚子とかの仲間なのよ。よくよく考えたら、柑類のにも、の漢字が使われているし」

「ああ、そうだったんだね……」


 柑橘類でミカンの仲間。そう言われると、白い花を咲かせる件の植物が、見知った物であるように思えたのだ。三月の末で尚も冬の気配が残っている中で、青々と茂らせた葉のつややかな表面には見覚えがあったからだ。養父母や義弟と暮らしていた実家の庭には、確か花柚子かミカンの木が植わっていたのを思い出したのである。

 それに俺の頭には、右近の橘・左近の桜という単語まで浮かび上がってすらいたのだ。


「芳佳ちゃん。桜を見た後に橘も見れるなんて、何かお得というか、縁起が良いよね。右近の橘・左近の桜とかって言って、橘と桜ってセットになっている感じだしさ」

「うーん。本当にそうかしら?」


 芳佳はしかし、またしても低い声でそう言っただけだった。


「直也君の言う事も一理あるんだけど、でもこの橘の木はちょっと変だわ。だって――橘の花が咲くのは、春の終わりからにかけてですもの。それこそ、ひな祭りや花見の季節ではなくて、鯉のぼりの季節の花なのよ。直也君も、鯉のぼりの歌は知ってるでしょ?」


 俺の返答を待たずに、芳佳は静かに鯉のぼりの歌を口ずさみ始めた。そう言えば小学校の音楽で習った歌だったな。芳佳の歌声に耳を傾けながら、静かに俺はそんな事を思っていた。

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