第66話 別れの挨拶と狐の忠告
※
気付けばお花見もお開きになりつつあった。かれこれ小一時間、いやそれ以上の時間を花見会場に滞在していたらしい。飲んだり食べたり話したりしているだけだと思っていたから、時間があっという間に過ぎていった事には驚いている。
ついでに言えば、花見に来た俺は、ほぼほぼ再会した島崎との世間話ばかりしてしまっていたのだが。のっぺりとした、いかにも目立たぬ風貌の島崎は、しかし話上手で聞き上手だった。だから俺も、ついつい彼と話し込んでしまったのである。
ちなみに、芳佳は芳佳で島崎の妻である玲香さんと談笑したり、あるいは団地の仲間たち(団地の面々はある種の家族のような存在らしいから、芳佳にとっては親や兄弟姉妹のような存在だろう)に挨拶周りに行ったりしていた。
ごくわずかな時間しか芳佳が傍にいなかった事について、俺は特段寂しさや腹立たしさを感じる事は無かった。
むしろ芳佳にも、俺以外のヒトたちの繋がりがあって、それを蔑ろにしないのは良い事だとも思っていた。
もしかすると、そうした仲間や妹分がいたとしても、もはや彼女にとって一番大切な存在は俺である。その事を確信しているから、芳佳が他の誰かと交流していても、穏やかな気分でいる事が出来るのかもしれない。
「島崎君。今日は奥さんと一緒だったのに、引き留める形になって悪かったなぁ」
芳佳と合流する少し前に、俺は別れのあいさつ代わりに島崎にそう言った。彼は嫌がる素振りなど見せず、むしろ笑みを深めて言葉を続けた。
「良いよ良いよ。むしろ俺だって、和泉君と会えて嬉しかったくらいなんだからさ。それに玲香さん……いや妻も楽しんでいたみたいだしね。妻は俺たちよりもここの地理とか妖たちに詳しいから、やっぱり懐かしかったりしたんじゃあないかな」
妻、と言う時の島崎の表情が何とも気取ったもので、それが俺には少しおかしく感じられた。吹き出しそうになるのを俺は堪えていたのだが、島崎はそんな事すら一顧だにしない。自分の世界に入り込んでいるようだった。
少ししてから、島崎が改めて俺の顔を見つめる。その眼差しの鋭さと真剣そのものの表情に、一瞬たじろいでしまった。
「まぁだけど、和泉君も楽しく過ごしているって事が解ったから良かったよ。何というか、学生の頃よりも元気そうだし」
「やっぱり芳佳ちゃんと……いや松原さんと一緒に暮らし始めたのが良かったのかもって思うぜ。あの子の手料理も美味しいからさ」
言いながら、俺はかつて食事に対してどんな事を思っていたのか、唐突に思い出してしまった。食事の後に襲ってくる気持ち悪さがたまらなく嫌で、だから食事自体が苦痛だったのだ。だがそれも、遠い過去の事のように思えてならない。芳佳が作る料理を口にして以来、謎の体調不良に襲われる事は無いからだ。
と、島崎はそんな俺をじっと見つめていた。茶褐色の虹彩の真ん中にある瞳孔は縦長に細まっていて、彼自身も妖狐である事を如実に物語っていた。
「あんまり他人様の事をとやかく言うのは野暮だと思うけどさ……和泉君。松原さんの事はくれぐれも大切にするんだぞ? 俺は遠目に彼女を見ただけど、いかにも気立ての良さそうなお嬢さんじゃあないか」
妙に説教がましい言葉を言われ、俺は少し戸惑ってしまった。もちろん、芳佳が気立ての良い娘であるという所には異存はないけれど。
「どうしたんだよ島崎。急に、そんな説教臭い事話をするなんて」
気になって問いかけると、島崎はここで一瞬申し訳なさそうな表情を見せた。それからおのれの手指を弄びつつ、ゆっくりと口を開いた。
「いやその……どうにも和泉君が、松原さんとの関係をはっきりさせないように見えてしまったからさ……そりゃあまぁ、君にも君の考えがあるんだろうけれど」
島崎は尚も何か言いたげであったが、しかし彼はそれ以上は何も言わなかった。芳佳や米田さんが、俺たちの所に戻ってきたからだ。
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