第50話 春の兆しと突然の雨

 藤原に連れられて島崎が勤務する研究センターに営業に向かってから、更に二週間ばかり経った。短い二月はその間に過ぎ去り、いつの間にか三月を迎えていたのだ。

 

 季節は冬から春へと向かっていたのだろうけれど、俺の暮らしには特に大きな変化はなかった。芳佳は相変わらず俺の部屋で暮らし続けているし、その間に他の妖怪に絡まれたり襲われたりする事も無かった。

 研究センターにいる島崎や雷園寺などもそれぞれ半妖と純血の妖怪(雷園寺は雷獣だった。名前から察していたけれど)だったりするのだが、何度か営業で顔を合わせるうちに、彼らの存在にも慣れてしまった。雷園寺は雷獣である為か、機械関係にかなり強いという事が解ったくらいだろうか。


 あ、雨だ。同僚の一人がブラインド越しに窓を見やりながらぼやいたのは、夕方に差し掛かったころの事だった。あと一時間と十数分ばかり仕事を頑張れば、終業時間を迎えるという時間帯である。

 この時俺は窓辺を見ていなかった。けれど雨が降り始める鈍い音は聞こえていた。大粒で、地面や屋根を叩く音は、キーボードのタイピング音などよりもよく響いていた。きっと外は、どんよりとしたダークグレイに淀んでいるのだろう。


「朝は晴れていたのに、雨なんぞ降るなんてなぁ」

「まぁまぁ、春先で天気も変わりやすいんだから仕方ないでしょ」

「ある意味雪よりかはマシかなぁ」

「むしろ雪の方が良いじゃん。珍しいし、雪だるまとか作れるしさ」

「大阪で雪なんて降らないでしょ」


 仕事の終わりが目前という事で、同僚たちの会話も妙に弾んでいる。

 雪がこの辺りでは降らないという話には、俺も無言ながらも頷いていた。郷里である姫路の方がうんと寒く、雪がちらつく事があったからだ。それでも降っても白鷺城がうっすらと雪化粧する程度だけど。

 そう言えばこの会話に、係長たる藤原は加わっていないな。そんな事に気付いてしまった俺は、ふと気になった彼の方を見やった。藤原は涼しい顔で業務を続けているだけだった。だがよく見れば、デスクの端に黒い折りたたみ傘がぶら下がっている。天候に関係なく傘を常備しているらしい事は、それだけでも明らかだった。

 やはり抜かりの無い男だ。俺は芳佳との朝のやり取りを思い出しながら、そんな事を思ったのである。

 今日は必ず雨が降るから。傘を持って行った方が良いわ。俺が出勤する前に、芳佳は確信めいた表情でそう言ったのだ。だが俺は、いやいやめちゃくちゃ晴れているんだから大丈夫じゃあないか。そう言って傘を持たずに出勤してしまったのだ。あの時は実際に晴れていたし、天気予報でも降水確率は午後からでも三十パーセントとかなり低かったのだから。

 雨音を聞き朝のやり取りを思い出すにつれて、俺は少し憂鬱な気分になり始めていた。天気痛の気も多少はあるかもしれない。だがそれ以上に、どんな顔で芳佳に会えばいいのかと今から悩み始めていた。

 芳佳は可愛らしい美少女だし、彼女と俺は仲良く過ごしている事には変わりはない。だけど最近芳佳は、ほんの少し俺に対してワガママになっている気もするのだ。わざと俺を怒らせたり、困らせたりするような事は流石にない。だけど時々拗ねたり、妙に甘えたりするようになっていたのだ。

 多分今日は、俺が傘を持って行かなかったからって事で芳佳は拗ねるかもしれないな。これまでの経験則からして、俺はそんな風に思っていた。芳佳の事は好きだけど、派手なワガママを言うわけでは無いけれど、やはり彼女に拗ねられると色々とややこしいのだ。

 それこそ藤原などだったら、拗ねた女の子の扱いにも困らないのかもしれないけれど。


 あれこれ思い悩みつつも時間は過ぎていくし、ついでに言えば仕事も片付いていった。結局のところ、俺は定時から十五分ほど過ぎた所で帰宅する事と相成ったのだ。

 雨は相変わらず降り続いている。窓と言わず屋根と言わず地面と言わず、大粒の春雨がぼとぼとと叩きつけられていた。通り雨では無かったのだ。俺はその音を聞きながら、またしてもため息をついた。

 雨に降られたとしても、所詮は徒歩十分足らずの道行きだ。別に構わないではないか。そんな風に思いながら、俺はエントランスを抜けていった。


「なっ……!」


 エントランスの向こう側に佇む影を見つけ出した俺は、思わず間の抜けた声を上げてしまった。影は明らかに女の子の姿で、もしかしなくても芳佳だったからだ。

 ぎょっとする仕事仲間たちの視線や声をよそに、俺はその影に向かって歩み寄っていた。狐なのに忠犬のごとき表情でもって、芳佳は俺が出てくるのを待っていたのだ。もちろん傘を差し、男物の傘を片手に提げながら。


「直也君。傘、忘れてたでしょ。持ってきたからもう大丈夫だよ」


 俺の姿を認めるや、芳佳は微笑みながら傘を差しだしてくれた。

 傘を受け取る時に、偶然か必然か彼女の手指に触れてしまう。体温が高いはずの彼女の手指はひんやりとしていて、ずっと長い間そこで待っている事を物語っていた。

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