第48話 風呂上りと年の功

 普段から長湯する性質ではないのだけれど、今日の入浴はことのほか手っ取り早い物だった。夕食前という事もあるし、疲れていたという事もある。湯船に浸かるとそのまま寝入ってしまいそうだったので、ひとまずシャワーを浴びただけだ。

 浴室のすぐ傍に鎮座する上には、いつの間にか着替えが用意されていた。俺が置いたわけでは無いから芳佳が準備してくれたのだろう。しかも俺が好んで袖を通すやつである。嬉しさと多少の気恥ずかしさを感じつつも、俺は服を着てリビングに戻った。


 リビングでは芳佳がテーブルに夕飯を運んでいる最中だった。ハンバーグに付け合わせの温野菜、そして薄めの味噌汁である。しかも一人分では無くて二人分だ。

 帰るのが遅くなるから、先に夕飯は済ませていても良い。芳佳にはそう言っておいたのだが、俺が帰るのを待ってくれていたのだろう。彼女の健気さに、今一度俺は申し訳なくなってしまった。


「お風呂、早かったんだね。もうちょっとゆっくり入っていても良かったんだよ?」

「えっと……もしかしてまだ匂うかな? その、オス妖怪とやらの匂いとかさ」


 言葉なんて他にもたくさんあったはずなのに、俺の口から出てきたのはそんな言葉だった。芳佳はずっと後風呂だから何か申し訳ないとか、申し訳ないと言えばそもそも夕食を待たせた事だとか、そういう事を言った方が良かったのに。

 しかし芳佳は、既に俺の言葉を耳にしている。そうしてちょっと考え込んでから首を振っていた。


「ううん。匂いとか妖気とかの方はもう大丈夫だよ。水の流れでそう言うのも流れちゃうから……昔から『水に流す』って言うけれど、それもある意味本当の事なんだから、ね」

「そっか。そうだったんだ」


 我ながら何とも間の抜けたような事を口にしつつ、俺はテーブルの前に腰を降ろした。芳佳もそれを確認して対面に腰を降ろす。ハンバーグには少しお豆腐を入れたのだとか、そんな事を少し話してくれた。

 俺が帰ってくるまで自分の夕飯を食べるのを待っていたんだよね。気まずさを一方的に抱えながら言うと、芳佳はあっけらかんとした笑顔を浮かべて頷いた。


「折角一緒に暮らしているんだから、やっぱりご飯は同じ時間に食べたいなぁって思ったの。向こうでも、平坂さんやスコちゃんたちと団地で暮らしていた時もそんな感じだったし」


 芳佳はそこまで言うと、茶目っ気たっぷりな笑みを浮かべながら言葉を続ける。


「それに直也君。私は狐なのよ。狐というかイヌ科は食い溜めが出来るから、ちょっとくらい食事が遅れても大丈夫だから、ね。直也君もお仕事は頑張らないといけないから、私の事は気にせずにお仕事頑張ってね。私も……仕事とかスコちゃんたちの事とかでどうしても手が離せない時もあるかもしれないから」


「芳佳ちゃん。藤原レオポンと一緒に新規営業先に出向いたんだけどね、そこに九尾の狐の……玉藻御前とか蘇妲己って呼ばれていた九尾の子孫が勤務していたんだよ」

「玉藻御前の、本当の子孫の方にお会いしたのね。道理であれだけの妖気が染みついていたのね」


 九尾の末裔にエンカウントした。俺はまずその事を口にしただけだったのだが、芳佳は納得したような表情を見せていた。

 まぁ確かに、妖気が濃いというのはその通りなのかもしれない。俺はまだ妖気の濃さという物は解らない。だけど島崎のやつは四尾だったからな。妖狐の尾の数の上限は九尾であるが、一般妖怪の世界では三尾くらいでもって事になるらしい。但し、普通は百年おきに一尾ずつ増えるから、尾が増えるだけの経験も具えているという事になるんだけど。

 もっとも、俺が驚いているのは、ただ単に玉藻御前の末裔に遭遇したというだけではないのだ。


「しかもさ芳佳ちゃん。そいつは、島崎のやつは俺と同郷だったんだ。厳密には小学校と中学校が同じだけだったんだけどね。それにめちゃくちゃ驚いちまったぜ。俺は完全にあいつの事は忘れていたのに、向こうは結構俺の事を覚えていたしさぁ……」


 言いながらため息をつき、それから箸で切り分けたハンバーグを口に運ぶ。豆腐入りのハンバーグはフワフワしていてあっさりとした後味で普通に美味しかった。

 ハンバーグを咀嚼し飲み下しつつ、俺は芳佳の様子を窺った。

 玉藻御前と言えば、妖狐的にも超有名な妖怪の一体であろう。何せ都人が恐れおののいた世界三大悪妖怪の一体なのだから。その子孫が生き延びていて、事もあろうに人間に擬態して過ごしていた。芳佳たちのお陰で妖怪慣れしてきた俺だけど、その事実がとんでもない事のように思えてならなかった。

 芳佳も妖狐だけどそれほど強くはないと言っていたし、彼女も彼女で九尾の末裔の事は怖がるのではなかろうか。俺はそんな風に思っていたのだ。

 ところが、芳佳は食事と思案を続けながら、あっさりとした表情で口を開いただけだった。


「島崎君の事は私も気付かなかったけれど……多分あの子の事は大丈夫だと思うわ。噂だと、あの子は半妖だけど生まれつき妖力が飛びぬけて多くて強かったらしいの。もしもあの子が、何がしか悪い事をしようと企んでいて、実際に何か仕出かしたのなら、そう言う事って既に明るみになってるはずだもの」


 そもそも就職して大人しく業務に励んでいるという事こそが、社会秩序に逆らわずに過ごしている事になるのではないか。芳佳の物言いは穏やかだが冷静な物であり、俺は思わず頷いてしまった。

 やはり年の功というのはこういう時にも発揮されるのだな。まるきり少女姿の芳佳を見やりながら、俺はそんな事を思っていたのだった。

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