第47話 遅い帰宅と跳ねる白狐

 結局、仕事を終えて帰ってきたのは夜の八時を回ったころだった。昼過ぎに藤原と共に新しく担当する営業先に出向き、戻ってから議事録の記入を行ったりしているうちに、こんな時間になってしまったのだ。残業自体はそんなに珍しい事ではない。だというのに、ここ二週間ばかり定時を少し回った所で帰る事が多かったから、めちゃくちゃ遅くまで残業していた気分になる。前までは九時ごろまで残る事もザラだったのに。

 タイムカードを押して帰り支度を進める。その間俺が考えていたのは芳佳の事だった。彼女には六時の休憩時間に遅くなると連絡も入れてはいる。とはいえ俺の事が大好きな芳佳の事だから、寂しがっているのではなかろうか。そんな懸念が俺の中にはあったのだ。

 というよりも、俺も俺で、仕事が長引いて芳佳に会う時間が減ると思うと気が気では無いし。議事録は滅びても良いと思う。


 普段通りにインターホンを押して扉の鍵を開ける。すると扉の向こうから軽い足音が響いたかと思うと、芳佳が小走りに駆け寄ってきた。


「お帰りなさい、直也君。今日は遅かったのね」


 芳佳はそこまで言うと、インコのように小首をかしげて微笑んだ。

 俺の帰りが遅い事を口にした芳佳であるが、そこには遅くに帰ってきた事への糾弾の意味は一切無かった。むしろ遅くまで仕事をこなしていた事を労うような優しさと慈愛に満ち満ちているだけだ。

 ああ、やっぱりこんなに可愛い娘に、こうして仕事が遅かった事を心配してもらえるなんて。やっぱり幸せだよなぁ。そんな風に思って、俺は少しだけぼんやりしてしまった。久々に外回りをしたせいで、疲れていた事もあったのだろう。

 そんな俺を見ながら、芳佳があらあらうふふと笑っている。見た目はハイティーンの少女なんだけど、芳佳の言動が新婚の若奥様(しかも昭和の若奥様だ)めいたものになる事が度々ある。妖怪で歳を取るペースが人間とは違うと言えども、俺よりもうんと年上だからなのかもしれない。六十代という事は、ちょうど昭和の生まれだろうし。


「直也君も随分とお疲れみたいね。鞄は私がはこ……」


 芳佳は健気にも、俺の鞄を受け取ろうとしたらしい。これもまたいつものやり取りだったのだが……芳佳の動きと声は途中で止まった。

 のみならず、それ以降の彼女の動きは、いつものものでは無かった。

 まず彼女の喉から甲高い声が迸った。人の悲鳴というよりも、まるきり獣の啼き声そのものだった。

 次に彼女は驚いた猫のように飛び上がり、そのまま後方へと移動したのだ。尻尾の毛だけではなく、髪までも逆立ったその姿は、所謂「やんのかステップ」を連想させるものだった。

 それから芳佳の姿が一旦もやに包まれたかと思うと、何と白狐の姿に戻ってしまったのだ。

 芳佳は確かに妖狐ではある。しかし普段は人間の姿に化身しており、本来の姿に戻る事は殆ど無い。変化を解くのは寝る前や疲れ切った時、あるいはひどく驚いたり冷静さを失った時である。

 そして今回はどうか。芳佳が何かに驚き、そして怯えてすらいる事は明らかだった。彼女は白い毛を逆立てて、それでいて耳を伏せ尾を垂らしていたのだから。

 もっとも、彼女が何にここまで驚き怯えているのか、その理由までは俺には解らない。解らないからこそ、呆然と芳佳を見つめていたのだった。


「芳佳、ちゃん……?」

「ご、ごめんね」


 俺の呼びかけに、芳佳は上目遣い気味に応じた。悪戯が見つかった仔犬のような態度であり、俺の中で申し訳なさが更に膨れ上がる。


「ええとね、直也君から、とっても強い妖怪の……それもオスの妖怪の匂いが漂っている事に気付いて、それでちょっとびっくりしちゃったの」


 芳佳の口調はたどたどしかった。敢えてオスの妖怪と言い切った所に俺は気付いてしまったが、芳佳も妖狐の女の子だから、オスの妖怪を警戒するのもごく自然な事かもしれないと俺は思った。

 それにまぁ、あいつらはオスかメスかで言えばオスになる訳だし。

 

「ほらね、私って妖狐だけどそんなに強くないの。だからどうしても、強そうな妖怪の気配とか匂いには敏感になっちゃうの……」


 言いながら、芳佳は鼻面を下げて視線を落としていた。白狐の姿に戻っているせいで、叱られてしょんぼりする犬のような物悲しさが漂っている。

 芳佳ちゃん。決然とした口調で言い切ると、俺は靴を脱いで上がり込んだ。


「その話は後でちょっと詳しく話すよ。実は俺も、そのオス妖怪……というか男妖怪連中の話は芳佳ちゃんに聞いてほしいと思っていたからね。だけどその前にお風呂に入ろうと思っているんだ。多分その……匂いとやらも取れるだろうし」

「お風呂なら、もう沸かしてあるから大丈夫だよ、直也君」


 先にお風呂に入る。俺がそう言うと芳佳は何故か元気を取り戻したらしかった。俺も俺で、元気の戻った芳佳を見て、ホンワカとした気分になったのだった。

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