第39話 憑きまとう悪夢と思いがけぬ救世主
「ぎゃあっ、おぎゃ、おぎゃああああああっ!」
俺の声に気付いて突進してくる芳佳であったが、正気を失っている事は明らかだった。裂けんばかりに開かれた口からは、赤ん坊の泣き声のような絶叫がほとばしり、その白い面にははっきりと、苦悶と憤怒の形相が刻まれていたのだから。
「芳佳……しっかりしてくれ芳佳ちゃん!」
おろおろと声を掛けながら、俺は芳佳の身体をホールドしようとした。抱っこすれば流石に落ち着くだろうと思ってしまったのだ。
「ぎゃうっ!」
「あっ、痛っ……?」
興奮状態の犬猫を鎮める際に、手を出すのは最悪手である。相手がどんなに懐いていたとしても、反射的に噛みつかれてしまう恐れがあるのだから。その言葉を思い出したのは、芳佳が暴れ狂って腕に噛みついた直後の事だった。
小さいと言えども芳佳も立派な食肉目の獣である。優美な口の中に収まっている牙は鋭く、俺の腕にがっぷりと喰い込んでいたのだった。
それでも俺が錯乱しなかったのは、幸か不幸か痛みを感じなかったからだった。本来であれば悶絶するほどの痛みなのかもしれない。しかし実際には、芳佳が食らいついている右腕は、何かしっかりとしたもので固定されている程度の感覚しかなかったのだ。
「この……だは……いに……」
腕をねじ切ろうとデスローリングを繰り返しながらも、芳佳の喉からは低い声が漏れていた。何と言っているのかは解らない。しかしとても切迫している事だけは感じ取った。
取り敢えず俺は抵抗せずに、芳佳が落ち着くのを待った。噛み付かれているにも関わらず特段痛みはない。だから無理に彼女を引きはがす必要も無いのかもしれない。そもそも所詮は夢の中なんだし。余裕ぶった俺は、そんな風に思っていたのだ。
「え……何だよ、これは……!」
しかし、そうして余裕ぶっている事が出来たのも束の間だった。芳佳が猛然と噛みついている俺の腕に、とんでもない異変が発生したからだ。
芳佳の牙の間から流れ出ているのは、俺の血液などでは無かった。むしろ機械油のごときどす黒さであり、それは地面に滴るや否や、黒い芋虫から黒いアゲハチョウに姿を変え、俺たちの周りを羽ばたいているだった。
「……」
ぶつぶつと呪詛を口にする芳佳の存在も相まって、俺は腹の底から冷え冷えとする恐怖心を抱き始めていた。そう言えば、さっきも蝶が羽ばたいて飛んでいく姿を見なかったか。それは確か、廃墟、での――
「ああやっぱり! 二人とも、こんな所にいたんですねっ」
頭上から聞き慣れた声が降って来る。それが誰なのか、思案を巡らせる暇など無かった。声の主は、そのまま流星のごとき勢いで俺たちに突っ込んできたのだから。
俺と芳佳はぶつかったそれに仲良く吹っ飛ばされたのは言うまでもない。途中で、芳佳と俺は分離して、それぞれ別の場所に落下してしまったのだが。いや、無様に落下したのは俺だけだ(痛くなかったけれど)。芳佳は吹っ飛ばされながらも空中で姿勢を正し、四本の足でちゃんと着地出来ていたのだから。
声の主、そして俺たちを吹き飛ばした元凶は、視線の先に佇んでいた。
それは細長い体躯の、金色の毛並みを持つ獣だった。イタチとかオコジョを巨大化させたような姿で、長い尻尾が二本と、それよりもうんと短い尻尾が一本チョロリと生えていた。
その獣が誰なのか、数秒ほど経ってから気が付いた。メメトだ、と。
大柄な獣の姿になったメメトは、がばと口を開くと俺の肩口の辺りを咥え、そのまま自分の背中に乗せた。それから芳佳の首根っこを咥えてぶら下げ、そのままジャンプして駆けだしたのだ。彼女が走っているのは地面の上ではない。空中だった。
「夢の世界に囚われていたようですが、ひとまず私の方で見つけ出せたので良かったです。ええ、ええ。私も精神世界や夢の中に干渉する力はございます。見ての通り、管狐ですので、ね……」
俺を背に乗せ芳佳を咥えたまま、メメトは何事か語っていた。その言葉を全て理解する事は出来なかった。それこそ、遠い夢の出来事を見聞きしているような気分だったのだ。
そしてそこで、俺はハッとして目が覚めた。手探りでリモコンを見つけ出し、電気を付ける。俺は確かに自室にいて、ベッドの中に収まっていた。あの得体の知れない廃墟とか、その周辺の田舎道にいた訳では無い。
隣には、一緒に眠っていた芳佳もとぐろを巻いてそこにいた。彼女も目を開いていて、俺の奇行で起こしてしまったのだろうかと思ってしまった。
大丈夫よ。芳佳は目が合うと、そう言って僅かに微笑んだ。
「私も……夢見が悪くて目が覚めただけだから」
「それじゃあ、俺と同じだね」
俺はそこまで言うと、もう一度部屋の電気を消した。あの時、俺と芳佳は同じ夢を見ていたのだ。根拠も何もないけれど、そんな風に思った。
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