第35話 瘴気の煙と隠された尻尾
へたり込んだメメトを前にして、真っ先に動いたのは俺では無くて芳佳だった。彼女は半ば俺を押しのけて前に進み、そうして今にも頽れそうなメメトの前へと手を差し伸べた。
メメトはしかし、ぐったりとしながらも芳佳の差し伸べた手を拒絶した。すなわちはっきりと首を振り、芳佳の手を払いのけようと右手を伸ばしたのだ。但し、メメトの右手は奇妙な方向へ伸ばしていただけだったのだけど。
俺はその一連の様子を、ただ黙って見下ろしているだけだった。俺の目の前で起きている事なのに、何処かテレビや動画でのドラマのワンシーンを見ているような気分だった。
だからなのだろう。メメトの尻尾が実は一本だけではなくて、三本もある事に気付いてしまったのは。二本は細長かったが、最後の一本はひどく短く、毛玉の塊のようにしか見えなかったけれど。
「メメトっ。どうして……?」
芳佳の声には驚きと、それ以上に悲痛な響きが伴っていた。メメトはだるそうに、しかし決然とした態度でもって顔を上げ、芳佳の顔を正面から見つめた。
「松原、さん……今の私に触れては、い、いけませんよぅ。貴女のような、か弱い仔狐には、私が漂わせる瘴気は、ち、ちと刺激が強すぎますからねぇ……」
「あなた、瘴気を溜め込むまで働くなんて、働き過ぎよ。それで上がり込んだ先で倒れてしまうなんて……」
気だるげなメメトの言葉に、芳佳は唇を噛んでいた。何のかんの言いつつも、芳佳はメメトの事を慕っている。慕っているというほどでは無いにしろ、彼女の身を案じる位には情はあるんだ。その事に何故か安心しながら、俺は未だに事の次第を眺めていた。
そんな中、メメトの視線が俺の顔をしっかと捉えたのだ。
「ああそうだ。もしも……もしも私の身に触れるのであれば、少しの間は和泉さんにお願いしましょうかねぇ」
「何ですって!」
今のおのれの身に触れる事が出来るのは、芳佳では無くてこの俺なのだ。メメトの謎めいた、そして挑発的な言葉に芳佳は吠えた。
「何でっ。私じゃあ駄目なのに、どうして直也君だったら大丈夫だなんて言うの?」
メメトは三本もある尻尾をくねらせていたが、すぐには返答しなかった。わざと答えないのではなくて、答えとなる言葉を探り出しているだけである事は、俺たちにはとうに解ったけれど。
「和泉さん、が人間だからですよ。良いですか松原さん。私、どもは妖怪であるがゆえに、時に瘴気に敏感に反応してしまうのです。丁度、い、今の私のように……ですが松原さん。和泉さんはご存じの通り、普通の……人間に過ぎません。人間の身であれば、瘴気を感じる事も少なく、ゆえに瘴気の害を受ける事も少ないでしょう」
それよりも。メメトは長い尻尾の一端で器用に窓辺を指し示した。
「もちろん、松原さんにもやっていただきたい事はありますとも。ひとまずは、窓を開けて換気していただきたいのです。その際に、一緒に換気扇も回してくださいな」
「瘴気を逃がすのね……解ったわ」
芳佳はすぐに窓を開けて網戸にし、ついでに換気扇のスイッチも探し出して起動させていた。二月の冷え冷えとした空気が、換気扇の機械的な音と共に流れ込んでくる。確かに外気は冷え切っていたが、部屋が冷える事への不快感は無かった。むしろ、ぬるんでいた空気が一掃されるようで心地よくさえあったのだ。
「メメトさん。後は何をしたらいいかしら?」
「私の鞄の中に……邪気除けの札があるんです。それを一枚取り出して、私の頭なり背中なりに貼り付けてくださいな。応急処置と言えども、それでどうにかなるでしょうから……」
それじゃ、私は一旦横になりますよぅ。メメトはそこまで言うと、宣言通りにその場に横になってしまった。倒れ込むような動きだったものの、俺が咄嗟に手を出して支えたために、床に頭からぶつかるような事態にはならなかった。
支えたメメトの身体は嘘のように軽く、それこそ発泡スチロールか何かで出来ているのかと疑いたくなるほどだった。しかしそれも、人間の少女の姿だったからそう思ってしまったに他ならない。
薄暗く濁った色の煙を放ちながら、メメトはちいさな獣の姿に戻っていた。その獣はホンドギツネの芳佳やチワワのスコルよりもさらに小さく、それこそフェレットほどの大きさしかなかった。そして不思議な事に、フェレットほどの大きさだと思うと、身体がやけに軽いのもごく自然な事だと思えたのだ。
「確かに、瘴気は大分抜けたみたいね」
メメトの身体から放たれた煙こそが瘴気だったのだろうか。迷わず邪気除けをメメトの背に貼り付ける芳佳の言葉に、俺はそんな事をぼんやりと思っていた。
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