第30話 気付いたら夫婦の条件に付いて考えていた件

 メメトは一向に帰る気配はなかったが、俺は別段それを咎める気はなかった。何せ彼女も、食事を摂っている最中なのだから。

 今しがた食事を始めた俺たちと違い、メメトの食事は八割がた終わっている。しかしそれでも、まだまだ食べきるのに時間がかかりそうだと俺は思った。何と言うか、ひどくゆっくりと箸を進めているのだ。俺と話がしたいと言っていたらしいから、その事とも関係があるのかもしれない。

 ヒトであればその食事のゆっくりとしたペースは不自然なものに見えたのかもしれない。しかしメメトの振る舞いには不自然さは無かった。それこそが妖怪、管狐の特質なのかもしれないと思わしめるほどに。

 だから俺たちも、自分の食事に集中できるはずだった。メメトが、妙な事を口にしてしまったその瞬間までは。


「……松原さんも和泉さんも、こうして見ていると、何か夫婦みたいに見えますねぇ」

「ええええっ」


 メメトの言葉に、俺は思わず箸を取り落としそうになった。芳佳がやって来てまだ二日であるが、彼女が俺の部屋にいる状況に既に順応してしまっている。ずっと昔から、彼女が傍らにいたような錯覚さえ抱くほどなのだから。

 だがそれでも、夫婦みたいだと言われると違和感を覚えてしまった。そういう関係性であると思った事はまだないからだ。

 そういえば、カラカラという軽い音が聞こえた気がする。そう思って視線を向けると、芳佳は何と箸を取り落としていた。先程の音はそれだったのだろう。

 落としてしまった箸を手許に寄せると、芳佳は手指を組んでもじもじした表情で俺とメメトとを交互に見つめている。気恥ずかしさに顔を赤らめるの彼女の姿は、控えめに言って可愛かった。


「んもう、私たちが夫婦だなんて……メメトさんもおひとが悪いわ。そりゃあ私だって直也君が良人おっとだったらいいなって時々思う事もあるけれど、だけどまだはやってないもの……」

「やる事って何です?」


 すっとぼけたような、メメトの問いを前に、俺の耳はかつてはやったマジシャンのように巨大化しそうになっていた。というか箸を握る指先が、汗で何かぬるぬるとしてきた。


「やる事と言ったら、そりゃあ……こ、こ、婚姻届の提出とかよ」


 気恥ずかしそうに口にする芳佳の言葉に、俺は芸人よろしくずっこけそうになった。座っているからずっこけるというのはおかしな表現かもしれないが。

 だが俺は、芳佳以上に照れていた。「こ」から始まる夫婦が行う事として、芳佳とはもっと別の単語が浮かんでいたからだ。口にしなくて良かったと、今は心の底から思っている。


「そ、それにしても婚姻届って……」

「もしかして、直也君は嫌なのかな?」


 流れを変えようと放った俺の言葉に、小首を傾げながら芳佳は問いかける。つぶらな瞳は少し潤んでいて、可愛らしさと哀れさを同時に掻き立てるような表情を見せていた。

 しばし無言で見つめ合っていたのだが、俺と芳佳の間に漂う空気が、圧と重みをじわじわと増していくのを感じた。芳佳の愛情が重たくて、粘性を具える事は俺も大体解っている。今だってきっと、俺に拒絶されたと思い込んで、それで不安になっているのかもしれない。

 俺はだから、両手を振りつつ芳佳に弁明を始めた。


「いや、いや。そう言う意味で言った訳じゃあないんだよ芳佳ちゃん。俺としては、むしろ君が婚姻届を出したいって思ってるって事が……俺に対してガチで惚れてるって事が解って嬉しいくらいさ。

 だけど、ただ、話が急すぎてびっくりしただけなんだよ。君とはずっと一緒にいるような気分だけど、よく考えたらさ、まだ一緒に暮らし始めて二日しか経ってないだろう。それに、芳佳ちゃんは妖怪だけど、人間の俺と結婚するって事で、婚姻届とかを出しても受理されるのかなとか、そういう事が気になりもしたんだ」


 妖怪がわんさか登場するあやかし学園を視聴していた俺であるが、さりとて実在の妖怪たちの暮らしについてはまだほとんど知らない。芳佳が暮らしていた団地の様子を見た感じでは、妖怪たちも組織というか社会のような物を構築しているようには見えた。それでも、人間とは種族も寿命も何もかも違うから、人間とは全く同じという訳でも無かろう。


「妖怪と結婚する場合の婚姻届ですか。それなら、事前に色々と手続きをしていれば、人間同士の結婚と同じように、手続きは出来ますけどねぇ」


 俺が口にした疑問は、思いがけぬ所から返答が戻って来た。声の主はメメトだった。彼女は手酌でラムネをコップに注ぎつつそう言ったのだ。


「和泉さん。私どもは確かに妖怪ですけれど、然るべき施設で然るべき手続きを済ませれば、人間としての戸籍を得る事が出来るのですよぅ。そうすれば、人間社会に溶け込む事もよりスムーズになるという寸法なのです。

 もちろん、かつて犯罪を起こしたり特に人間を襲った経歴のある妖怪などの場合でしたら審査もかなり厳しくなりますが……松原さんは品行方正に慎ましく暮らしておいでの女狐ですので、審査の方もするっと通るのではないかと思います」

「品行方正だなんて、メメトさん。いくら何でも言い過ぎよ……」


 メメトの説明を聞き終えた芳佳は、またしても頬を赤らめていた。品行方正と言われた事と、人間の戸籍を得る事。どちらに頬を赤らめているのかは、俺には定かではなかった。

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