第28話 仕事終わりと来訪者

 玄関の三和土たたきに見慣れぬ靴があったが、俺はそれほど驚きはしなかった。

 芳佳の物とは異なれど、女物の靴であったし、そもそも今日は来客があると芳佳から聞かされていたからだ。

 それどころか、十五分ほど前にも芳佳からメメトという管狐の女性がやって来たとメッセージアプリに連絡を受け取ったばかりではなかったか。

 さて、どうやって応対しようか。そこまで大げさな物でなくとも、どんなふうに振舞おうか。俺は靴を脱ぎながら、頭の中の情報を整理しつつ考えを巡らせた。

 メメトは芳佳に遠見の鏡をレンタルしていた業者だと言っていたから、そうなれば彼女は芳佳とビジネス上での関係があるという存在に過ぎない。

 だけど、芳佳はメメトに対して、若干の胡散臭さとそれに伴う嫌悪の念や不信感を抱いているらしく、その事は俺に対しても包み隠さず示していた。直也君も彼女には用心するのよ。芳佳が暗にそう言っているように感じたのだ。

――と、そんな風にあれこれと考えを巡らせていると、部屋の奥からこちらにかけて軽い足音が近づいてきた。足音の主はもちろん芳佳だ。彼女は新妻っぽくエプロン姿で、力なく垂らしていたまっ白の一尾を、一度だけ無造作に揺らした。


「お帰りなさい、直也君」

「あ……ただいま芳佳ちゃん」


 一言一句はっきりと発音しつつ挨拶する芳佳の姿に、正直な所少しだけ気圧されてしまう。彼女は困ったような笑みを浮かべながら言葉を続けた。


「メッセージを送った通り、メメトさんが来ているの。あのひとったら、月賦だのなんだのって言った挙句にラムネまで持ち込んで、それで夕飯まで貰って居座っているんですから……」


 そこまで言うと、芳佳は小声で「どうしてもね、彼女は直也君に会いたいんですって」と言い添えた。


「解ったよ、芳佳ちゃん」


 俺はそう言うと鞄を置いて靴を脱ぎ――それからやにわに芳佳の手を握りしめた。彼女の手はほっそりとしていて手の甲まで滑らかで、そしてひどく暖かかった。妖狐、要はキツネであるから、人間よりも体温が高いのだ。


「まあその……芳佳ちゃんにしろメメトって言う管狐の娘にしろ、ビジネスとかが絡んだだけの関係だよね。俺もさ、一応営業職だからそう言うののややこしさは解るよ。だからさ、メメトさんとやらに色々話しかけられても、最低限の応対しかしないようにするからさ。安心してほしいな」


 手を握られたまま、芳佳は照れたように顔を赤らめていた。しかし俺を見つめるその瞳には、早くも安堵の色が滲み始めている。

 自分をひたむきに愛してくれる誰かを欲している事、その誰かの関心や愛情が、余所に向かう事を恐れている事。芳佳がそんな心の癖を抱えている事を、俺は既に把握していた。何故なら――その癖は俺の心の中にも巣食っている物なのだから。


「俺が好きなのは、愛しているのは君だけだよ。芳佳ちゃん」

「直也君ってば、本当に情熱的なんだから……私も、ヒトの事は言えないけどね」


 ダメ押しとばかりに俺は愛の言葉を放つ。口では呆れたような事を言いつつも、芳佳も芳佳で満更でもない事は、その態度と表情で明らかだった。


「それにしても芳佳ちゃん。台所の方は大丈夫なの?」

「大丈夫よ。さっき夕飯の支度も終わった所だし」


 互いに更に言葉を交わしつつ、二人でリビングに向かったのだった。


 メメトと呼ばれている管狐の少女の姿を見るなり、俺は驚きと不思議な感覚に襲われて立ち尽くしてしまった。

 別段メメト自体は、異形丸出しの奇怪な姿をしている訳では無い。細長い一尾(妖狐である芳佳のそれよりもうんと細長く、毛足も短そうだった)がひゅるんと伸びている事以外は、私服姿の女の子にしか見えない。強いて言うならば、ショートボブの明るい金髪だとか、オコジョのようにカーディガンも冬物ワンピースも白やクリーム色で統一しているだとか、それでいて両腕はまっ黒な手袋で覆っているだとか、そう言った所が印象に残った程度だろうか。

 それよりも、俺は客妖であるはずのメメトが、恐ろしいほどにくつろいでいる姿に驚いてしまったのだ。真冬の最中にラムネの瓶を持ってきて、尚且つ夕飯まで分けて貰っている事は先程聞いたばかりである。

 メメトの姿は仕事で俺の家に来訪した客には見えなかった。むしろ彼女は昔からこの部屋で暮らしていて、俺こそが用事で訪れた客のような気分ですらあった。


「和泉直也さん、でしたよね。いえ失敬。あなたのお名前は、そちらにいらっしゃる松原さんからお聞きしました」


 俺の存在に気付いたメメトが口を開く。もちろん食事の手を止めて。箸を置く際の動きやら顔の上げ方などには、そこはかとない育ちの良さを感じた。

 華奢で童顔である事も相まって、少女のような印象を抱いたのだが、その割には大人びた表情を見せている。大人っぽいというよりも、様々な事を見聞きして、それ故に老成し世を倦んでいるような気配さえ感じられた。


「初めまして和泉さん。私は管狐のメメトと申します。父母の顔も知らず兄弟姉妹の安否や実在すら定かではありませんが……優しい術者に拾われ、それ以来ご主人様の許で研鑽と仕事に励む日々でございます」


 自己紹介と共に行われた身の上話に対して、どう反応すれば良いのか解らなかった。メメトはここではっきりと笑みを見せ、言葉を続ける。


「ええ、ええ。下賤な管狐の身の上など、サラッと聞き流していただいて結構ですよぅ。但し、私の名前については覚えて頂ければ嬉しく存じております。

 何せこのメメトという名は、メメント・モリにちなんでいますからねぇ」


 メメント・モリ。実に有名な単語である。確か意味は「死を想え」という事だっただろうか。妖怪と言えども、そんな名前を付けられる事もあるのだろうか。

 さて芳佳はというと、メメトに対して呆れたような表情を見せ、しかもあからさまにため息までついていた。それでも彼女は何も言わず、台所に向かうだけだったのだ。

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