第26話 管狐とラムネの瓶:芳佳視点
※※
壁に掛けられた時計を確認した私は、思わずため息をついた。
時計は午後五時五十分を指している。夜というには浅すぎるけれど、夕方と呼ぶのもしっくりしない。そんな時間になっていた。
それだけじゃない。午後六時と言えば直也君の会社の終業時間でもある。直也君の職場は歩いて五分ほどだから、あと十分もしないうちに直也君が帰ってくるかもしれない。バイトを終えてすぐに、夕飯の支度を始めていて良かったと思う。
道具屋でのバイトは、別に世間のサラリーマンたちと違って八時間びっちり働かなくてもいい。それでも帰宅は四時半を回ってしまう。きちんとした物を作ろうとすると、やっぱり時間はかかる。
特に今日は、何となく憂鬱な気持ちが頭やお腹の中に留まっているのだから、尚更だ。別にメメトが来る事を憂鬱に思っている訳じゃない。直也君の事、直也君とのこれからの事を思うと、何となく憂鬱になってしまうのだ。
直也君が私を受け入れた。そう思っているのは私の思い上がりに過ぎないのかもしれない。私はその事に、昨晩気付いてしまった。季節外れの蝶を、忌々しい不浄と死の象徴ともいえる蝶を踏みにじったあの時に。
と、インターホンの音が部屋に鳴り響いた。私は一旦コンロの火を止めると、エプロン姿のまま玄関に向かった。誰が来たんだろう、と疑問に思ったり不安を抱いたりはしない。メメトがこの時間に(わざわざ)やって来る事は、私もちゃんと知っていた。というよりも、十五分前には彼女からメールも入っていたほどなのだから。
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「……ふむ。この部屋が松原ちゃんの言っていた、運命の殿方のお部屋なんですね」
やって来たメメトはそう言うと、テーブルの前に腰を下ろして部屋のあちこちを無遠慮に眺めていた。彼女がやって来たのは、あくまでも私が長らくレンタルしていた遠見の鏡の返却に応じ、回収するだけの簡単な仕事だったはずだ。だけどメメトが鏡を受け取って大人しく帰ってくれるようには思えなかった。どっしりと腰を下ろした姿やせわしく周囲を観察する眼差しが、ちょっと長居させてもらうよと暗に伝えているように思えてならなかったのだ。
しかも彼女は、鏡を納めるはずのビジネスバッグから、ラムネの瓶を取り出しているし。
「私たちを茶化したり冷やかしたりしたら承知しないわよ」
「そんなそんな。私は松原ちゃんの事を茶化すつもりは毛の先程もありませんよぅ。もちろん、お相手の男性にもちょっかいも掛けませんし」
メメトは両手を軽く上げてそう言った。両腕を覆う長い手袋の黒色と、白系統を基調とした彼女の服装とのコントラストの烈しさに、私は一瞬目が眩んだ。と言っても、彼女がずっと腕まで覆う手袋を着用している理由は私も知っている。彼女は色々な物に触れると思念を読み取ってしまうため、普段はそれを抑え込むためにああしているのだ、と。そんな事が解るくらいには、私もメメトとの付き合いは地味に長い。
団地のあるじである平坂さんとメメトの飼い主が交流があるからなんだけれど、私個人としてはメメトとは何となく腐れ縁のような物があると思っていた。
実を言えば、私はメメトの事をそんなに好いている訳では無い。妖当たりは良いんだけれど、いまいち何を考えているのか解らないし、言動も胡散臭いし皮肉っぽい所もある。それでいて、こちらの本質を見抜くような態度を見せる事もある。そう言う理由から、私はどうもメメトの事が苦手だったのだ。
ぷし。聞き慣れない、何処か気の抜けたような音がすぐ傍で響いた。
何だろうと思って視線を向けると、何とメメトは持ってきたラムネの瓶を空けていたのだ。ビー玉を落とされたラムネ瓶の入り口からは、白い泡が無遠慮にあふれ出る事は特に無かった。あんまり揺らさずに持ってきたのだろうか。そんな事を思いつつも、私はメメトを睨んだ。
「メメトさん。居座った挙句に勝手にラムネの瓶まで空けて、本当にフリーダムなのね」
「まぁまぁ。昔は月賦の事をラムネとも言いましたから、それにあやかって今回ラムネを持ってきたんですよ」
「あやかっても何も、そもそも月賦自体が死語になってると思うんだけど……まぁ良いわ、コップを持ってくるから、それに注いで飲んでくださいね」
私は言いながら、一旦食器棚に向かう。コップも食器も直也君が持っている分もあるが、私が持ってきた分もいくらかある。日用品として食器も持ってきておいて良かった。メメトが夕飯の一部を所望する未来をイメージしながら、私はそんな風に思った。
月賦:所謂ローンの事。現在では死語(筆者註)
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