第25話 若手係長は見た
藤原怜央。百獣の王・ライオンの名を冠する彼の事は、俺はどうにも苦手だった。苦手どころか、一方的に嫌ってすらいる位だ。
と言っても、別に木幡さんを盗られたからそう思っている訳では無い。彼女の恋人という関係性以前に、藤原の事はどうにもいけ好かない男だと思っていたのだから。
端的に言えば、この男は持つ男だった。何せ祖父が会長を務める会社に縁故入社した挙句、専務である父親と同じように幹部候補生として将来を嘱望されているのだから。そうでなければ、入社して数年ぽっちで主任どころか係長などに昇進などしないだろう。
その上こいつ自身も端麗な容姿のイケメン(実は母親譲りらしい。専務とは面立ちが似通っていないからだ)であるし、上司連中からはちやほやされ女性社員からも熱っぽい視線を受けるようなモテぶりなのだ。天に二物も三物も与えられているのではないか。そんな風に俺はこの男を前にして思ってしまうのだ。
ちなみに藤原は、その名前から「レオポン」などというあだ名で呼ばれる事もあるが、実の所ライオンのような男ではなかった。荒々しいオラオラ系などではなく、優位に目を配り、要領よく世渡りを進めるような狡猾さ、もといスマートさを兼ね備えているのだ。そう言う意味では、ある意味キツネに似た男なのかもしれない。いや、芳佳と懇意になった今では、キツネを狡猾だなんて言いたくはないが。
芳佳はむしろ、素直な娘なのだから。
「えっ。和泉君、昨日は女の子と一緒に遊んでたの……?」
木幡さんの驚いたような声で、俺はふと我に返った。その顔にもはっきりと驚きの色が浮かんでいる。とはいえ、まじまじと俺を見つめるその表情に嫌悪の色が無かった事が救いだった。
無邪気に驚く木幡さんの隣で、藤原がゆっくりと首を振る。ツーブロックに刈り上げたヘアスタイルは、彼の頭の動きでは崩れる事は無かった。
「和泉君にも昨日は休むべき事情があったのだろうし、体調不良だったって事は真実だと僕も信じているよ。だけど和泉君。君は本社の近くで暮らしているんだから、社員の目があるかもしれないという事を気を付けたまえ。
僕だって、別に君を監視していた訳じゃあない。ただ、営業の帰りでオフィスに戻る時に、たまたま君の姿を見つけてしまったんだ。ただそれだけさ」
藤原はそこまで言うと、木幡さんにそれとなく目配せをした。何かを察したらしい彼女は一度瞬きすると、電話番をしておくと言い残して俺たちの許を去って行った。
俺と藤原は、自分のデスクに戻る木幡さんをしばし眺めていた。それから藤原は俺の方に向き直る。のみならず、半歩ばかり俺の傍ににじり寄ったのだ。
「まだ話はあるんですか」
問いかける俺の声は震えていた。有給を良い事に遊び呆けるな。そんな説教で話は終わりだと思っていたのだ。そうなれば藤原は俺から離れるだろうと思っていた。だというのに、彼は木幡さんを席に戻し、逆に自分は俺に近付いているではないか。
「あるとも。むしろここからの話の方が僕としては本題になるかな」
そう言うと、藤原は一瞬視線を俺から外した。何処を向いて何を見ているのかはわざわざ調べるまでもない。彼の恋人である木幡さんに視線を向けた事は明らかなのだから。
「何と言うか、絵美ちゃん、いや木幡さんが傍にいると話しづらいだろう? 僕としても、もちろん君としても、ね」
絵美ちゃん。いかにも馴れ馴れしい藤原の言葉に、俺の瞼がピクリと動いた。
そして俺の心自身もピクリと波打つ。何故藤原が、木幡さんの名を馴れ馴れしく呼んでいるからと言って、心を波立たせなければならないのか、と。
「君が木幡さんに気がある事は僕も解っていたんだよ? まぁ多分、木幡さんも勘付いていただろうけどね」
「藤原、お前――」
ライオンじゃあなくてむしろハイエナみたいなやつじゃあないか。衝動的にこみ上げてきた言葉を、俺はどうにか飲み込んだ。レオポンだかハイエナだか解らないが、ともあれこの男に楯突くのは悪手である事を、俺はきちんと心得ていたからだ。何せ会長の孫である。権力を使ってしがない平社員を追い出す事くらい、その気になれば出来るのだろうから。
だが、藤原は機嫌を損ねた素振りは見せなかった。困ったように肩をすくめ、しかしその面には悪戯っぽい笑みを浮かべていたのだから。
「おいおい、僕が君から木幡さんを取り上げた訳では無いよ。君がもし彼女に恋心を抱いていたとしても、別段付き合っていた訳では無いんだろうからさ」
藤原にそう言われると何も反論する事が出来なかった。そうだ。俺は単に木幡さんに片想いをしていただけで、木幡さんと藤原は互いに思いを確認して付き合っただけだ。別に藤原は木幡さんを盗った訳では無い。だから彼には非はないし、俺も藤原を不当に糾弾する事も出来ないのだ。
「それにさ、ゆうべ一緒にいた女の子と、今は深い仲になってるんだろう。だったら構わないじゃないか」
「…………?」
話の流れをがらりと変え、ついでにさも愉快そうに藤原は笑む。そんな藤原を前に、俺はただ目を丸くするだけだった。確かに、今の俺は芳佳の事を愛しく思っている。長年俺の事を思い続け、一緒になると言ってくれているのだから。
藤原の言う深い仲というのもあながち間違いでは無かろう。既に同棲生活も始まってるし。
そんな事を思っている間にも、藤原は言葉を続ける。
「君らの事はちらと見ただけではあるけれど、別段犯罪の香りとかも無さそうだと僕は思ったんだよ。ああ、僕は別に和泉君の私生活について細かい所まで口出しはしないよ。善良なサラリーマンとして、法に触れるような事が無ければね」
だけど――営業マンらしく饒舌に語っていた藤原は、ふと思い出したように俺に人差し指を向ける。厳密に言えば、俺の着込んでいるワイシャツに。
「君も営業マンだから、身だしなみにはもうちょっと気を付けた方が良いかな。ワイシャツやスーツに狐の毛が付いているからね。案外、クライアントはそう言う所も気になさるんだから」
そこまで言うと、藤原は気取った様子で手を上げてあいさつし、そのまま踵を返して立ち去って行った。結局細かい所まで口出ししたんじゃあないか。そんな事を思ってみたものの、スーツに芳佳の白い体毛が付着していたのはまごう事なき事実だった。
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