第24話 風化した恋とオフィスのライオン

 マンションを出た俺は、そのまま徒歩で職場に向かった。家から職場までの距離は近く、徒歩でも六、七分で到着できるほどだ。というよりも、職場に近い所にマンションを借りただけなんだけど。

 いずれにせよ、職場が近いのは八割がた良い事だとは思う。

 第一のメリットはやはり出勤時間の大幅な短縮だ。電車通勤や車通勤の場合なら、出勤に小一時間かかる場合もあるという。その事を思えば、十分足らずで職場に到着できるというのは、他のサラリーマンたちが日々浪費している時間の五分の一しか俺は浪費していないという事だ。というか出勤するギリギリまで布団に入っていても、よほどの事がない限り遅刻する事もない。

 ついでに言えば睡眠時間も他のサラリーマンよりも長く取れるからか、割とすっきりとした頭と気持ちで仕事にも励む事が出来る。もしかしたら、そうした所も会社の人は見てくれているのかもしれないな。

 デメリットについては……まぁ落ち込んだ気持ちを引きずったまま出勤してしまう事があるというくらいだろうか。


 そんな事を考えているうちに、俺は早くも職場の敷地内に足を踏み入れていた。梅田の外れにある本社ビルはまさしく銀色の摩天楼であり、田舎者などが見上げるとそのまばゆさと大きさに立ち眩みでも起こすだろう(実際俺も、入社一年目はアホのように見上げては立ち眩みを起こしていた)。

 二十五階建ての本社ビル自体は近代的でいっそ無機質なのだが、そうした建物に彩りをもたらすためなのか、エントランス周囲の庭らしき場所は植物が植えられたりモニュメントが鎮座していたりと中々に装飾に凝っていた。

 モニュメントは幾つもの機械が組み合わさったようなよく解らない代物であるが、それもうちの職場が機器総合商社である事を示すための物らしい。割とどうでもいい事なのかもしれないが、そんな事は妙に覚えていた。いや……俺自身も営業事務の所属だから、そういう事は意外と必要な知識なのかもしれないけれど。

 職場周辺も特に変化がないのを確認し、俺は粛々と足を進めた。エレベーターを使い、自分のオフィスがある十三階まで向かう。金属製の四角い箱が上昇していく感覚を受け止めながら、俺はぼんやりと表示板を眺めていた。別の社員もこのエレベーターに居合わせていたが、お互い特に何も言わない。

 昨日は一日休んだだけだが、職場の同僚たちは特に大きな事として取り扱いはしないだろう。そんな事を思った俺は、早くも安心感に頬を緩めていた。いない者として扱われ無視されるのもつらいが、おかしな事をしたやつとして見做され、白い目で見られるのも嫌だったからだ。


「おはよう、和泉君」


 支度を整えオフィスにやってきた俺は、俺に向けられた明るく友好的な挨拶に目を丸くした。声の主は木幡絵美だったのだ。かつて俺が片想いし、しかし藤原のボンボンの存在によって密かに失恋を味わった、あの木幡さんである。


「あ、う、うん。おはよう……」


 サラッと素直に挨拶を返せずに、しどろもどろになりながらも言葉を紡ぐ。我ながら陰キャの極みではないかと思えてしまい、何とも気恥ずかしく情けない所だ。

 ところが木幡さんは、そんな俺の挙動不審な態度を嗤う事は無かった。ただただ穏やかに、そして気づかわしげな表情で俺を見つめるだけだった。

――ああ、だから俺は、彼女に惚れていたんだな。

 ふいにそんな事を思っていた。木幡さんに惚れていた理由について冷静に分析できたことに、俺は密かに驚いてもいた。一昨日失恋したばかりだったのに、もう既にそれを過去の事として受け入れてしまうとは。

 そんな風につらつらと考えを巡らせる俺の心中に気付いているのかいないのか、木幡さんは言葉を続けた。


「昨日は体調不良で休んだって聞いたけれど、大丈夫? でも今は見た感じ、元気そうだし……」


 大丈夫です。俺はもう元気ですよ。まぁそもそも昨日休んだのは単なる二日酔いで、それである意味仮病みたいなものなんですから。最後の仮病云々は言わないにしろ、とりあえず俺は元気である事を木幡さんに伝えようとした。

 だが、俺が口を開こうとしたまさにその時、一人の男がやって来て俺たちの会話に割り込んできたのだ。


「はっはっは。絵美さんも同期の和泉君の事を心配するなんて、優しいじゃないか」


 若者らしからぬ鷹揚な笑みで言い放ったのは、もしかしなくても藤原怜央だった。彼はさも当たり前のように木幡さんの隣に立つと、俺を見据えながら言葉を続ける。


「だけど、和泉君はもう元気になってるのは明らかな事さ。元気になったからこそ出社したんだからね。それに何より、夕べは女の子と一緒に出歩いていたみたいじゃあないか」


 にたりと笑いながら放たれた藤原の言葉に、俺は目を見開いて硬直してしまった。

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