第二章:新生活と管狐のお客

第23話 新たな朝と二人の会話

 翌朝。二日酔いも失恋のショックからもすっかり回復した俺は、普段通りの時間にすっきりと目覚める事が出来た。そこからいつものように細々とした身支度を行い、普段通りの時間に出社した。


「行ってらっしゃい直也君。お弁当は持ったかな?」

「うん。お弁当は持ったよ」


 いや……普段通りというのはちょっと違うか。何せ今は、俺の傍に芳佳がいるんだから。芳佳は単に俺と同棲している訳では無かった。現に今朝だって、眠り呆けていた俺よりも先に目を覚まし、朝食だけではなく弁当まで作ってくれたのだから。

 芳佳の手料理は昨日の昼(?)から口にしているのだが、日頃食後の俺を悩ませていた謎の不快感は、今の所一度もない。むしろ後々襲って来た不快感を恐れずにしっかり食べる事が出来るから、いつもよりも元気になれたような気さえしているくらいだ。

 もっとも、昨日は会社を休んで一日中自由に過ごせたから、そのせいで元気なだけなのかもしれないけれど。

 

「あのね、直也君……」


 そろそろ出社しようかなと思っていた丁度その時、芳佳がおずおずと口を開いた。


「どうしたの?」

「今日ね、私がずっと借りていた『遠見の鏡』を道具屋さんに返却するんだけど、その事を向こうに相談したら従業員の管狐の娘が『わざわざ松原さんが出向かなくても、私がこっちに来て回収する』って言われたの。それで、そこからはもうトントン拍子で私が彼女をこの部屋で出迎えるって事で決まっちゃって……」

「そう、だったんだ」


 何処か困ったような芳佳の言葉に、俺はぼんやりとした声で応じた。

 話の具体的な内容よりも、道具屋の従業員がサラッと管狐であるという事に関心が向いていたのだ。芳佳も妖狐で妖怪だから、やはり人間よりも妖怪同士での繋がりの方が強いのだろう。


「そんな訳で、今回メメトさんをこの部屋に上げる事になっちゃったんだけど、大丈夫かな? この部屋って、元々は直也君のお部屋だから」


 メメトって言うのはその管狐の名前なの。芳佳はそんな事を言い添えると、上目遣い気味に俺を見た。

 こちらを見つめる芳佳の顔には、何やら緊張とも不満ともつかぬ表情が浮かんでいるのが見て取れた。何を緊張し、何を不満に思っているのだろうか。

 そう思いながらも、俺は彼女を安心させるために微笑んだ。


「大丈夫だよ、芳佳ちゃん。そのひとも君の知り合いなんでしょ? それに用事で来てもらうだけなんだからさ、俺は特に気にしないよ」

「でもね直也君。彼女ったら、わざわざ夕方から夜がけに来るなんて言ってたのよ。そりゃあもちろん、メメトさんだって仕事の都合とかもあるのかもしれないわ。だけどもしかしたら……」


 芳佳は何処か憤慨した様子で呟いていたが、最後の言葉までは言い切らなかった。言葉尻を濁らせているが、都合の悪い事を言わないようにしているのか、何処まで言おうか悩んでいるのか、何とも言い難い所である。

 それから表情を引き締めて、ひたと俺の顔を見上げた。先程までとは異なり、可憐で清楚な笑みがその面には広がっている。

 ううん。芳佳はそして、俺の前で軽く首を振った。艶のある黒髪が頭の動きに合わせて揺れていた。


「さっきの話は何でもないわ。ただ、もしかしたら、直也君の帰りが早かったら彼女に鉢合わせしちゃうかもしれないってだけなの。私は少しだけ、その事が気になっていたんだけど、あんまり気に病むのも良くないわよね。メメトさんはスコちゃんみたいに過激な言動をするひとじゃあないし、そもそも直也君がお仕事に行こうとしている時に、色々と話しても困るよね……?」

「大丈夫だって」


 俺はそう言うと、芳佳の肩にそっと手を添えた。妖狐である彼女の体温は高く、そして肩の骨格は驚くほど華奢だった。そんな彼女が、他ならぬこの俺を愛しているのだ。そう思っただけで、何も怖くなかった。あるいは、それこそが若さという物なのかもしれないけれど。

 いずれにせよ、出社という一大イベントを目前としていながらも、俺の心は晴れやかな物だった事には変わりはない。あの藤原怜央に何を言われても、笑い飛ばせるような勇気が、俺の中にはあったのだ。

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