第22話 妖しく舞うは冬の蝶

「お待たせ直也君! ごめんね、遅くなっちゃったかな?」


 荷物を片手に提げ、斜め後ろに妹分のスコルを従えて歩く芳佳は、俺の姿を認めると小走りに駆け寄ってきた。軽やかな彼女の動きを見ていると、やはり狐なのだなと思ってしまう。

 僅かな感慨を胸に抱きつつも、俺も芳佳に向けて手を上げた。俺の仕草に気付いた芳佳がまっ白な尻尾を振っている。懐っこい犬みたいで本当に可愛らしい。


「大丈夫だよ芳佳ちゃん。やっぱり荷物の準備って事だから時間はかかるだろうし、待っている間は平坂さん……と話をして時間を潰していたしね」

「そう……だったんですね」


 芳佳は俺から三歩ほどの場所で足を止め、神妙な面持ちでこちらの様子を窺っている。表情を見た感じでは、俺ではなくて平坂さんの様子を窺っているようにも見えた。

 彼女が平坂さんに恩義を感じ、頭が上がらないのも無理からぬ事だろうと俺は思っていた。幼い(?)頃は同族たる妖狐が運営する施設――恐らくは人間で言う所の孤児院に似た所なのだろうか――で暮らしていたが、成長して稼げるようになってからは、こちらに移り住んだようであるし。

 平坂さんと芳佳は、立場上は大家と店子という関係でしかないのかもしれない。

 しかし、芳佳やスコル、そして他の住民たちに平坂さんが気を配り、何かと面倒を見ているであろう事は、彼女と少し話しただけでも十分伝わってきた。


「良かったじゃあないか、芳佳ちゃん」

「――痛っ!」


 平坂さんが嬉しそうに声を上げ、ついで俺は悲鳴を上げた。上機嫌そのものの平坂さんに、肩を叩かれたためだ。派手な音に違わず、彼女の肩叩きにはインパクトと痛みが伴っていた。やはり彼女は怪力であるらしい。天狗だからなのだろう。


「君がスコルちゃんと一緒に荷物を運び出している間に、私は和泉君とあれこれ話をしていたんだよ。そこで私は――彼が誠実で信頼すべき青年だと判断したんだ」

「えっ……」


 平坂さんの言葉に間の抜けた声を上げたのは、他ならぬこの俺だった。誠実で信頼すべき男。彼女がどういった所で俺をそのように判断してくれたのだろうか。そもそもその判断は正しいのか。色々と気になったし、何故そう思ったのか直接聞きたいとも思っていた。

 だけど、それでも口に出すのは何となく怖くて、ただ平坂さんに肩を撫でられるだけだった。

 芳佳はというと……小さな手を顔に添えて、感極まったような表情で俺たちを見つめていた。嬉しさと言うか、感動の念がこみ上げてきて、上手く言葉に出来ないのだろう。


「幸せになりたまえ、芳佳ちゃん。うん、君ら二人なら幸せになれるだろう。その事は、私が保証するよ」

「よく解んないけれど……良かったな、芳姉!」


 幸せになれる。力強く放たれたその言葉は、実は呪いの言葉だったのではないか。そんな奇妙な考えが浮かんでしまい、俺は思わずその場でかぶりを振ったのだった。


「今日一日だけでも色々とあったね」

「うん。半分以上は私の用事だったけれど……直也君も巻き込む形になっちゃって、ちょっと申し訳なかったかな」


 夜。俺と芳佳は仲良く並んで歩いていた。団地での荷物運びとスーパーでの買い物を済ませ、俺の住むマンションへ帰っている最中なのだ。

 冬の陽は短く、日が暮れると大阪と言えどもやはり冷え込む。もしかしたら、芳佳が団地から必要な荷物を運び出した所で、一旦家に戻って買い物に向かった方が良かったのかもしれない。しかし、芳佳が「一旦帰ってまた買い物に行くのは二度手間になるわ」という言葉を飲み込んでしまったのだ。この辺り、俺も色々と機転を利かせた方が良かったのかもしれない。

 ほんのりと反省していると、芳佳が気づかわしげにこちらを見つめていた。

 いや……むしろ俺の顔色でも窺っているのだろうか。機嫌を損ねたとでも思っているのだろうか。

 そんな風に思ったから、俺は芳佳の方をじっと見つめ、微笑みながらかぶりを振った。


「巻き込んだなんてとんでもないよ。芳佳ちゃん。そりゃあ確かに、俺だって最初はスコちゃん、いや君の妹分であるスコルちゃんにはちょっと驚いたけれど……だけど最後には良い感じに落ち着いたから、大丈夫だよ」


 スコルという名のチワワ少女を思い出し、俺の笑みは苦笑いに変わっていた。最終的に彼女は、俺の事を兄と呼び、まぁまぁ愛想の良い態度で俺が去って行くのを見送ってくれたのだ。芳佳が心底惚れ込んでいる事と、平坂さんが認めた事を鑑みて、敵ではなく仲間であると認識したのだろう。色々な意味で犬っぽい少女だった。犬そのものなのだけど。


「良い感じどころか、スコちゃんってば直也君のお部屋に暇があれば遊びに行きたいなんて言ってたくらいだし……」


 そう言う芳佳の顔は、かすかな困惑と喜びの入り混じった表情を浮かべていた。気ままでお調子者な妹分の言動に悩みつつも、彼女との関係にヒビが入らなかった事を喜んでいるような感じだった。なんだかんだで、彼女は面倒見のいいお姉さんなのだと、俺は思い知らされた。


「大丈夫だよ芳佳ちゃん。平日は流石に困るけれど、休みの日なら大丈夫だって、今度スコルちゃんに教えてあげなよ。

 それに元々猫とかを飼いたいって思ってたから、あのマンションはペットも……」


 あら。短くも剣呑な声が、俺の隣で響く。俺の話に耳を傾けていたはずの芳佳の注意は俺から離れ、荷物とエコバッグをぶら下げながら視線を彷徨わせていた。

 彼女が何を見つめているのかは、すぐに解った。

 黒々とした冬の夜空の中を、一羽の蝶が飛んでいたのだ。翅の輪郭は黒く縁どられ、葉脈のごとき模様の間は淡いクリーム色に染まっている。翅の下半分は水色と紅色の紋様が浮かび、それがアクセントにもなっていた。

 飛んでいた蝶はだった。二月の寒い最中に飛んでいるとは珍しいではないか。やはり蝶自体も寒さを感じているのだろう。目の前のアゲハチョウの、フラフラとした弱々しい飛び方を見ながら、俺は何とも憐れな気持ちになっていた。

 それにしても――蝶に対する同情心や疑問の心は、次の瞬間にはもろくも崩れ去った。他ならぬ、芳佳の荒々しく暴力的な行為によって。

 芳佳は俺を押しのけるようにして前に進むと、そのままアゲハチョウを叩き落とした挙句、右足で踏みつけたのだ。それも間違って踏んだのではない。アゲハチョウを踏みにじったのだ。冷然とした眼差しを地面に向け、無言で爪先をぐりぐりと動かすさまを前に、そうとしか思えなかった。


「芳佳……ちゃん?」


 俺の声は情けないほどに震えていた。アゲハチョウを踏みにじる芳佳の姿に、ただならぬものを、鬼気迫る物を感じたからなのかもしれない。

 そして芳佳は、俺の呼びかけに気付くと、ハッとした表情を浮かべた。爪先の動きは止まったが、それでも怖い顔をしている事には変わりない。


「知ってる直也君。蝶ってね、本当はかなり不潔で不浄なモノなのよ。あいつらって私たちが出したものとか……死体にすらたかるんだから。だからね、そんなのを直也君は見なくても良いし、ましてや近寄って来るなんてもってのほかなのよ」


 直也君に集まる悪い虫は、私が排除してあげる。芳佳はそう言ってにっこりと微笑んだ。俺に対する思いの強さに感動しつつも、それでもやはり、そこはかとない不気味さを彼女に感じてしまった。

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