第20話 天狗大家はかく語りき
俺が呆然と突っ立っている間に、スコルも芳佳も気を取り直したようだった。あれよあれよという間に彼女らは連れ立って団地の奥へと向かっていった。芳佳は自分の荷物を取りに行くために。スコルはそんな芳佳の手伝いのために。
俺も今や芳佳と一緒に暮らしている訳だし、手伝った方が良いだろうか。コンマ六秒ほど思案した俺は、団地の方に歩を進めようとした。しかし――その俺の足が進む事は無かった。肩にずしりとした重みがのしかかっている。
万力のごとき圧に驚きつつ振り返ると、何と俺の肩には白い手が乗っているだけだった。手の主は芳佳たちのいがみ合いを仲裁した件の女性である。スコルがご主人様と呼んでいたような気がするが、俺はまだ彼女の名前も正体も知らない。でもきっと妖怪だろう。今この瞬間に確信した。
「和泉直也君だったね。君とは話がしたいんだ」
俺の肩に手を置いたまま、女性は静かな声で言う。眼差しは鋭くその面には何の表情も浮かんでいない。いや――抜き身の刀のような、鋭さと凛とした気配が全身から漂っている。
俺が怯んだ事に気付いたのか、彼女の手が俺の肩から離脱した。ついでに営業スマイルを浮かべてもいる。それでも俺は動けなかった。地面に縫い留められたかのように。
「それにだね。芳佳ちゃんとは同棲を始めたと言えども、大の男が乙女の寝床に足を踏み入れるなど野暮な事だと思わないかね? なに、スコルももう落ち着いているし、あの娘は芳佳に懐いているから、向こうは向こうに任せていても問題は無かろう」
付いてきたまえ、君にはちと積もる話があるから――女性はそう言うと、ゆっくりと歩き始めた。芳佳たちは部屋に戻っているのに、ここでは立ち話をしないのだろうか。俺の脳内にはそんな疑問が浮かび、ぐるぐると渦を巻き始めた。
この時にはもう、身動きの取れない謎の呪縛は解けていた。
※
件の女性は平坂と名乗った。この団地の大家であり、その正体は女天狗なのだという。天狗と言えば男性のイメージが強いが、時には女性が天狗になる事もままあるらしい。いずれにせよ、彼女も予想通り妖怪だったのだ。
「この団地ではね、妖怪たちの中でも特に妖怪社会に馴染めなかった妖たちを受け入れているんだ」
平坂さんの言葉に、俺はどうすれば良いのか解らなかった。頷いても良かったのかもしれないが、何も知らない俺が易々と頷くのは何かが違う気がしたのだ。
平坂さん自身は、俺に背を向けて中庭を眺めているだけだった。丁度庭師と思しき男性が、伸びた枝を剪定したり落ち葉や枯れた花を拾ったりしている。その男性の片腕は、獣の腕と刃物が融合したような形だった。きっとカマイタチなのかもしれない。
「スコルなどはその典型だろうね。見ての通り、彼女は元々チワワという品種の飼い犬だったのだけど、飼い主だった人間に捨てられたんだ。それも高速道路にね」
「……!」
平坂さんの言葉とちらと見えた横顔に、俺は強い驚きの念を抱いた。少しすれば心を覆っていた驚きの念は薄らぎはした。それでも複雑な気分だった。そう言えば、スコルはあの時「車道に捨てられるべきだ」と言っていたではないか。だがそれにしても、高速道路でわざわざ犬を捨てるなんて。死んでも構わぬと、死んでしまった方が良いとでも思っていたのだろうか。
「……そんな事があれば、人間を烈しく憎むのは致し方ないですよね。あるいは、彼女は……」
「左様。しかしスコルは怨霊ではないからそこは安心したまえ。諸般の事情で生きたまま妖怪化しただけだから、ね」
妖怪化した、という所で俺はぼんやりと頷いた。生まれつき妖怪として生まれるだけではなく、普通の動物だった者が何らかの理由で妖怪化する。そうした話も日中芳佳から聞いたばかりだったからだ。芳佳自身は生まれた頃から妖狐だったらしいのだけど。
「幸か不幸か、彼女は高速道路に捨てられながらも生きながらえたんだ。血統書付きの、温室育ちのお嬢様ともいえる身分である事を考えれば、相当な強運と賢さに恵まれていたのだろうね。
そして生き延びるにあたって、ロードキルされた動物の肉を喰い漁り、そこでどうやら妖怪化したらしいんだ。恐らくは、彼女が食べたモノの中に、妖怪化した獣や獣妖怪もいたのだろうね」
俺はやはり、平坂さんの言葉に無言で耳を傾ける他なかった。チワワだったはずのスコルのおぞましいまでの逞しさだとか、獣妖怪や妖怪化した獣が車で轢かれた程度で死んでしまう事への驚きなどで、俺はすぐには言葉が出てこなかった。
平坂さんの説明は尚も続いた。妖怪化したスコルは当然のごとく車諸共人間を襲う怪異と化したのだが、悪妖怪として見事に捕縛され、然るべき組織(よく解らないが、妖怪たちの間にも警察的な組織でもあるのだろうか)に引き渡され、更生する事と相成ったらしい。それで何やかんやあってこの団地に流れ着き、安住の地とスコルという名を得る事になったそうだ。
「……スコルというのは、北欧に伝わる巨狼の魔物の事さ。太陽に追いすがりいずれはそれを喰らいつくすと北欧神話では伝わっているのだけど……金色の毛並みを輝かせる彼女にはぴったりな名前だと思ってね」
「聞き覚えのある名前だと思ったら、やっぱり神話由来だったんですね」
スコルとハティ。フェンリルよりはいくらかマイナーな巨狼の魔物であるが、俺は彼らの名や伝承を知っていた。陰キャでオタク気質だった事もあり、そうした情報を集めていた頃があったからだ。
平坂さんは何とも言えない笑みを浮かべながら、言葉を続けた。
「少なくとも、ハティよりは良い名前だと思っているんだ。あれはスコルと違って月を喰らう巨狼とされているが、あの名には
俺は黙って、平坂さんの次の言葉を待っていた。だが、彼女も何か考え込んでいるらしく、次の言葉は出てこない。ただただカマイタチが、剪定を続ける音が響くだけだった。
※ロードキル:轢死した動物の事。
※※スコルとハティ:北欧神話では太陽を喰らう狼(スコル)・月を食べる狼(ハティ)とされているが、スコルには「嘲り・高笑い」ハティには「憎しみ・敵」という意味もある(筆者註)
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