第19話 犬啼きて百合の花(?)咲く
――しゃりん。
静まり返った団地の入り口で、もう一度鈴の音が鳴った。鈴の音は女性の手許から聞こえたらしい。それらしいものは見当たらないけれど。
獣の姿に戻っていた芳佳とスコルは、今再び人型に……人間の少女に似た姿に変貌していた。二人とも神妙な表情を浮かべていて、特にスコルなどは今にも泣き出しそうだった。
そんな二人を見ているうちに、俺はとんでもない事に気付いてしまった。
しおらしく項垂れる犬少女のスコルが、実は愛くるしい面立ちの美少女であるという事に。芳佳も美少女である事には変わりはないが、彼女とは美少女としてのベクトルが異なっていた。何と言うか、スコルは可愛い系の面立ちなのだ。一方の芳佳は少女らしい可愛さと大人の女としての美しさや楚々とした雰囲気を持ち合わせているという感じであろうか。犬系女子という言葉が脳裏に浮かび、俺は苦笑いしながら首を振った。犬系も何も、スコルは犬そのものではないか、と。
もしかしたら、敵愾心丸出しの姿を先に見ていたからこそ、余計に今のスコルが可愛らしく見えたのかもしれないが。
「……直也君?」
耳元で芳佳が囁く。その声は冷え冷えとしており、ついでに言えば疑念の色も僅かに浮かんでいた。訝しげに見つめる彼女に気付いた俺は、慌てて表情を引き締めた。横目で見つめる芳佳の瞳に、ひとひらの狂気と嫉妬の色を読み取ったからに他ならない。長らくぼっちで女の子とロクに付き合った事のない俺だけど、それでも緑眼の魔物が恐ろしい物である事は解っていた。いや――緑眼の魔物は俺の心の中にも宿っていたのだから。
いや、何でも無いんだよ。心の中で言葉を整え、芳佳にそう言って安心させてやろうとした。しかし、俺が口を開くよりも先に、成り行きを見守っていた女性が話し始めていたのだ。
「和泉何某というこの男性は、ただ単に芳佳ちゃんのツレじゃあないか。スコル。君は確かにこの団地の番犬として、優秀な働きぶりであるとは思っているよ。しかし、個人的に気に入らぬからと言って、牙を剥いていい訳じゃあないぞ。ましてや、仲の良い義姉のツレなんだからな」
女性の言葉に、スコルはばね仕掛けのようにびくっと身を震わせた。それから申し訳なさそうな上目遣いでもって女性を見やり、震える唇で言葉を紡ぐ。
「も、申し訳ありませんご主人様ぁ……駄目ですよね。芳佳お姉ちゃんの大切なヒトに牙を剥いた挙句、お姉ちゃんやご主人様に嫌われてしまうなんて。知ってます、スコルは解っているんです。あたしは本当は取るに足らない駄犬なんですよね。それで、ダメダメな駄犬はそのままその辺の車道に投げ捨てても構わないんですよね。
ああ! だけど、スコルは捨てられたくありません! ご主人様がたに嫌われるのは嫌だけど、また捨てられるなんて事はもっと嫌なんです――」
思いがけぬ長広舌に、俺はただ絶句するほかなかった。スコルが語る内容も、語っている態度自体も異様さを醸し出していたからだ。思いと言葉を吐き出し切り、尚もまだ足りず泣きじゃくる彼女の姿は、見た目にそぐわぬほどに幼い。関西弁で荒々しく話していた時の態度とはまるきり異なっている。
妖怪だから精神構造がいびつなのか。それとも、精神がいびつになってしまうようなきっかけが過去にあったのだろうか。スコルのいびつさの真相について、俺は何も知らない。だけど不気味な事に、彼女の事は他人事だとは思えなかった。
ほんのりと、スコルに共感している部分もある――その事に気付いた俺は、心の奥底から名状しがたい感情が蠢くのを感じ取ってしまったのである。
「もう、スコちゃんったら……」
俺の隣にいた芳佳がするりと動いた。ため息をつき、手のかかる幼子を相手にするような口調と表情でもってスコルを見下ろしている。しかし、駆け寄ってスコルの身体を抱きしめる時の姿と表情には、面倒見のいい母親や姉のような慈愛の色が滲み出ていた。
「スコちゃん。あなたは確かにここに居場所があって、ここのみんなから必要とされているわ。それは私も……大家さんも同じ事だわ」
「お姉ちゃん、あたし……」
申し訳なさそうに呟くスコルの頭や背を、芳佳は優しく撫でている。まだ泣き顔のままだけれど、スコルは明らかに、先程よりも落ち着いたようだった。もちろん、この二人の間に入り込む余地などは俺には与えられていなかった。
「百合……ですかね」
「むしろロマンシスと言った方が良いんじゃないかな」
思わず漏れ出た他愛のない俺の呟きに、女性が静かに応じる。俺は恥ずかしくなり、しかし芳佳とスコルを凝視するのも失礼に思え、地面をただ見つめる他なかった。
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