第14話 気後れなんて単なる取り越し苦労だ
身支度を終えた俺たちは、部屋を出て芳佳が暮らす団地へと向かっていた。明るい晴天で、二月の日差しがぽかぽかと地上に降り注いでいる。今年の冬は暖冬だというから、その辺りは有難かった。
だがそれ以上に、俺は周囲の視線が気になって仕方が無かった。隣を歩く芳佳は気にしていないようだが、俺たちには幾つもの視線が向けられていたのだ。
――ね、あれってカップルじゃあないの?
――本当だ。てかさ、あの娘めっちゃ可愛くない?
――一緒に歩いている男はちょっと冴えないけど。あれなら俺も……
視線と共に、ひそひそざわざわと交わされる言葉を、俺は耳にしたような気がした。本当に聞こえているのか、単なる俺の思い込みに過ぎないのか。
まとわりつく音声を振り払い、俺は芳佳に視線を向けた。彼女は確かに美少女だ。細面でその頬は赤く色づいており、この俺の隣で、さも嬉しそうに晴れやかな笑みを浮かべている。コートは少しくたびれているけれど、それも急ごしらえでやってきた事だから仕方がない。部屋にはもっとお洒落で可愛い服もあるのかもしれないし、そういう服は俺が買ってあげれば良いのかもしれない。
気が付けば、俺は芳佳に声をかけていた。
「芳佳ちゃん。聞きたい事があるんだ」
「何かな、直也君?」
俺の呼びかけに、芳佳がこちらを向く。真っすぐな瞳に、曇りのないその笑顔に、俺はめまいに似た感覚を抱いてしまう。
そうした物をぐっと抑え込みながら、俺は言葉を続ける。
「芳佳ちゃんは、どうして俺を選んでくれたのかな? 君みたいに、か、可愛くて気立ての良い娘だったらさ、男だって選び放題なんじゃないの。確かに、芳佳ちゃんと俺は二十年近く前に会った事があるって話だけどさ、だけど、それでも……」
「直也君」
しどろもどろに言葉を続ける俺を遮り、芳佳は短く名を呼んだ。暗い琥珀色の瞳には、仄暗い焔が揺らめいているような気がした。
「誰かを好きになる事に、はっきりとした理由なんて要らないのよ。直也君。直也君ももう大人だから、その事は解るでしょう?」
「ああ、うん。そっか……そうだよな」
芳佳の言葉は、はっきりとした答えなどではなかった。だけど、それこそが全ての答えだったのだ。いつの間にか、芳佳は切羽詰まった表情を浮かべていた。左手を、さりげなく腹部に添えながら。
「一緒になる相手は直也君しかいない。あの日直也君を見た瞬間に、私はその事に気付いたの。それに、独りぼっちで仲間がいないって言う意味では、私も直也君と同じなのよ。ずっと探し求めていた相手、それが私にとっては直也君だったの」
一旦言葉を切ると、芳佳はその面に笑みを浮かべる。腹部を撫でていた左手はもう離れていた。そしてその面に浮かぶ笑みは、少女とは思えぬ妖艶さを滲ませている。
「――それって直也君も同じ事でしょう?」
芳佳の瞳、芳佳の顔から視線が離せない。その瞳には情念の焔が宿り、妖艶な笑みには願いを叶えるまでの執念が滲んでいた。幼い頃に俺はこの女狐に出会い、そして魅入られていたのだ。虎視眈々と機会を窺っていたであろう芳佳の用意周到さと執念深さ。それを思うと、俺は心の中に沸き上がった強い感情に打ち震えた。
その強い感情はもちろん歓喜だ。ここまで俺を思ってくれている相手が現れたんだ。それ以上に嬉しい事など、この世にあるだろうか?
「そうだな」
俺は言うと、やや強引に芳佳と手を繋いだ。話し始めた時から、芳佳は俺の手に手指を伸ばし、絡ませようとしていたのだ。手を繋ぎたいという、芳佳の控えめな愛情表現だったのだと俺は解釈していた。現に手を繋いだ今も、芳佳は嫌がる素振りを見せてはいない。満更でもなさそうだ。というかそうであってくれ。
「ごめん芳佳ちゃん。俺もちょっとどうかしていたよ。芳佳ちゃんってば、ずっと俺の事を想ってくれていたんだもんな。だというのに、それを疑っちゃうなんて……」
「ううん。良いのよ直也君。私だって、ちょっと先走っていたところもあるもの」
会話は途中で途絶え、二人で静かに歩き続ける事になった。自分が芳佳の隣にいる事で気後れしていたが、それは間違いだったのだ。芳佳の隣にいても、違和感のない男になるようにせねば。俺は静かに、そんな事を考えていた。
気が付けば、俺を密かに悩ませていた雑音たちも消え失せ、辺りはただただ静謐な空気に包まれていた。
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