第10話 冷蔵庫と食事の話
さて芳佳がキッチンに向かったのを見届けたのは良いのだが、三十秒もしない間に彼女はこちらに舞い戻って来た。可愛らしいその顔には、何故か困ったような、少し怒ったような表情を浮かべているではないか。
「直也君。ちょっと来てくれるかな。相談したい事があるの。ある意味直也君の未来を決める、大事な事だから」
深刻な、そして何処かたどたどしい様子で芳佳は言うと、ついてくるようにと俺に手招きしてきた。手指の動きは何となく可愛かったし、手招いた後に「もう酔いは醒めたかな、大丈夫?」と気遣ってくれるのも可愛かった。
「どうしたのかな芳佳ちゃん。俺の未来を決める、大切な事って物凄い大げさなニュアンスだけどさ」
「とりあえず、一緒に冷蔵庫の中を見ましょ」
問いかけにはすぐには答えず、芳佳はずんずんと冷蔵庫の前へと進んでいく。勝手知ったる我が家であるかのように振舞う彼女の姿は実に頼もしかった。
「昨夜はね、私もそんなに気にしてなかったの。だけど、やっぱり冷蔵庫の中身が少ないなって思ったの。流石に空っぽじゃあないけれど」
「それはまぁ……料理はあんまりしないからだね」
開かれた冷蔵庫(と言っても、アラームが鳴るので空けていたのは数分にも満たないけれど)を前に、芳佳と俺は顔を突き合わせていた。冷蔵庫の中がスカスカで、入っている食品が良い感じに冷えている事は、俺も十二分に解っている。何せつい昨日までこの部屋の住人は俺だけで、食品などの類をどれだけ購入するのかは把握しているのだから。
「宅飲みもやるからさ、お酒に合うおつまみ的なやつは一応用意してはいるんだけど。後はまぁ、日曜日とかたまにご飯を作ろうかなって感じになる時もあるかな。せいぜいチャーハンくらいだけど」
弁明じみた俺の言葉に、芳佳は静かにため息をついていた。それから迷うような、思案するような眼差しを俺に向けつつ問いかける。
「ありあわせの物でもどうにか作れるけれど、それだとちょっと貧相な感じになっちゃうかな。それならいっそ、スーパーかコンビニでお肉とかお野菜とかを買おうかなって思うの。でも、それだったらご飯の時間も遅くなっちゃうし……どうしようかな?」
「お昼? はありあわせの物でパパっと作ってもらって良いよ」
「え、良いの?」
俺は即答したのだが、芳佳は不思議そうに小首をかしげただけだった。
「朝も食べてないから、それなら昼飯も兼ねて簡単なものをさっと食べたいなって思ってさ」
それにさ。未だ納得していない様子の芳佳を見つめながら、俺は言葉を続ける。
「俺、本当はものを食べるのが苦痛に感じる時の事が多いんだよな。食べ過ぎると気分が悪くなる事もあるし……」
「えぇっ、直也君。そんな、食べる事が苦痛だなんて!」
俺の言葉に、芳佳は飛び上がらんばかりに驚いていた。いささか大げさなリアクションが本心からのものである事は、彼女の尻尾を見れば明らかだった。ただでさえフワフワの毛に覆われた尻尾は、逆立って普段の倍ほどの太さになっていたのだから。
芳佳はそれから、俺の肩や腕をペタペタと触りながら、気遣わしげな眼差しを俺に注いでいた。芳佳に触れられている事、見つめられている事を思うと、俺の身体はかすかに震えた。歓喜の震えである事は言うまでもない。
「そっか……直也君、今はもう立派な大人だけど、やっぱり細いもんね。食べるのが苦痛って、もしかして摂食障害とかなの? 病院で医者とかに診てもらってるの?」
「摂食障害だなんて、それは大げさだなぁ」
他ならぬ俺の為に心配してくれる芳佳に愛おしさを感じつつ、笑いながら首を振った。やはり妖怪は現代社会に適応しているのだ。摂食障害という言葉を芳佳がするりと口にしたところからも、俺はそんな風に思っていた。というか妖怪も病気になったり、病院のお世話になる事もあるのだろうか。
「あれだよ、別に食べた後に全部トイレで戻したりとか、そんな事はやってないよ。ただ、ご飯を食べた後とかに気持ち悪くなる事が多い位かな。何となく頭が痛くなったり、胸とか腹の辺りがもやもやしたりとか、そんな感じなんだけど。でも割とあっさりした物とかを食べてたらまだマシだから、それであんまりがっつり食べないって感じかな」
「…………」
芳佳は俺の言葉をしっかりと聞いていた。思案するように手指を組んでいる。指同士が強く組み合わさり、握りしめられているのが俺には見えた。
「その、ご飯を食べた時にしんどくなるのって、昔からそんな感じだったの?」
「うん。正直言っていつからなのか解らないけど」
「そっか……大変だったんだね」
芳佳はそう言うと、物憂げで物悲しそうな表情になってしまった。俺の身を案じているのか、自分の手料理が受け入れてもらえるかどうかを思い悩んでいるのか、俺には解らない。ともあれ芳佳には物憂げな表情を浮かべて欲しくはなかった。
「大丈夫だよ、芳佳ちゃん。俺の事は気にしなくて良いから」
何が大丈夫なのかは俺にも解らない。だけど気が付いたら、俺は大丈夫だと言っていた。
芳佳もまた俺の気持ちが解ったのだろう。少し戸惑い気味に頷きつつも、料理の支度に取り掛かってくれたのだから。
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