第6話 夢と現と狐の添い寝

 いつしか俺は横になっていた。その辺りのいきさつはあんまり覚えていない。芳佳が淹れてくれたレモネードを飲んで、少し気分が良くなったのはかろうじて記憶にある。気分が良くなって、悪酔いのあの気持ちの悪さが遠ざかったから、それで眠くなったんだと思う。

――あら、直也君。眠くなったんだね。それじゃあ、ゆっくりお休み。大丈夫、私は傍にいるから。未来永劫、ずっと、ずぅっとね


 横になった俺の頭上には、芳佳のそんな言葉が降りてきていた。柔らかくて、優しくて、慈愛に満ち満ちた声だった。俺は満足して目を閉じる。

 それから、犬猫が歩くような足音と、少ししてから勢いのある水音が聞こえてくる。芳佳が入浴している所だろう。風呂場は使っても構わないと彼女には伝えてあるから。俺は風呂に入れる状態じゃあない。酔いが完全に醒め切ってから入ろうと思っているつもりだ。それはそうと、昨日の夜に風呂場を掃除しておいてよかった。俺は心の底から思っていた。芳佳も俺に惚れ込んでいるらしいとはいえ年頃(?)の女の子だ。風呂場やらが汚ければ嫌な思いとてするだろう。そもそもキツネって綺麗好きなイメージもあるし。

 芳佳の立てる物音や声に耳を傾ける。一人暮らしが長かったから、同じ部屋で誰かがこうして活動している音を聞くと不思議な気分になった。でも悪い気はしない。むしろ誰かが俺の傍にいて、こうして活動している音を聞いていると、心が落ち着いてきた。俺と同じ部屋にいるのに、その事が当たり前の事だと言わんばかりに振舞っている。そうした事が、俺が心の底から望んでいた事なのだとたった今気づいた。


「――、――」


 少女らしい伸びやかな声が聞こえる。歌でも歌っているのだろうか。それとも芳佳は泣いているのだろうか。俺にはもう解らなかった。悲しい歌という物もあるし、嬉しさに感極まって涙を流す事もあるのだから。

 それに何より、耳を傾けている俺も、半ば眠りかけていたのだから。


 悪酔いも孤独感も何もかも忘れて、俺はその場に立ち尽くしていた。遠くからは笛の音や和太鼓、鉦の音などが絡み合う、にぎやかな祭囃子が聞こえている。その中に紛れるように、低く小さな声で呟かれ囁かれる念仏も。

 ここは何処だろう。俺はふらふらと、導かれるように歩みを進めていた。職場の付近とも実家の付近とも違う、縁もゆかりのない場所。しかしそれでいて、何処か見覚えがあるような場所であるようにも思えた。夢の中では、たまにそういう事があるのだ。何度も行き来した事があるような場所が、異なる夢の中で繰り返し舞台になる。そんな事に似ているのかもしれないと、俺は思っていた。

 歩く先々は雑草が生い茂り、意外と歩きづらかった。というよりも、俺が踏みしめるたびに雑草が伸びていくようにも見えた。そんな事はあるのだろうか? 

 そして後ろでは、乾いたものが倒れ、そして湿った物が溶けていくような音が聞こえている。でも振り返らない。振り返ったら何か恐ろしい物を目の当たりにしてしまうような気がしたから。

 そうして歩いているうちに、雑草が繁っていない場所に辿り着いた。そこは荒れ果てた廃墟であり、しかも神社か何かの跡地であるらしかった。粉々に砕けた石像や、朽ちて中ほどで折れた柱などが、撤去されずにそのまま残っている。建物だって、壁が崩れて瓦が散らばってはいるものの、そこに確かにあるではないか。

 祭囃子の音が遠ざかり、その代わりとばかりに念仏めいた声がより明瞭に聞こえ始める。声は朽ちて崩れているはずの建物の中からも聞こえたし、しかも俺に向けて語られているようにさえ聞こえてきた。

 ややあってから、建物の影から何者かが姿を現す。裾や袖の長い、ゆったりとした衣裳をだらしなく着込んだ女だった。地味ながらも整った面立ちではあったが、何処を見ているのか解らぬような眼差しと緩み切った笑顔が、彼女の清楚な印象を明らかに損ねていた。

 ぼんやりと微笑む女がこちらに手を伸ばす。何処か愛おしげな笑みを浮かべる女の腰からは、ふさふさとした白い物が――


「……んきゅっ!」

「んおっ」


 すぐ傍で聞こえてきた奇妙な声に、俺はふっと目を覚ました。そしてそこで、先程まで見ていた光景――祭囃子に念仏の声、崩れた廃墟に謎の女の姿だ――たちが、全て夢の中のものなのだと悟った。

 何という事はない。俺は自室のベッドに横になって、そしてうとうとと眠っていただけなのだから。

 ただ、そんな俺の隣には、さも当然のように芳佳が身を横たえていたのだが。妖狐の少女たる彼女は、少しばかり身体を丸め、そして俺に密着する形で眠っていた。先程の奇妙な声も、彼女のものであろう。

 しげしげと観察していると、芳佳の瞳がうっすらと開いた。照れくささと少女への愛おしさが入り混じるのを感じながら、俺は少女の背に腕を回したのだった。どの道まだ夜中だろう。そう思いながら、俺は再び目を閉じて眠る事に専念した。

 芳佳が隣にいるのだと思うと、奇妙な夢を見ても怖くなどない。奇妙な確信が、俺の心を満たしていたのだ。

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