第5話 酔い覚ましと夫婦茶碗

 芳佳に手を引かれつつもどうにか歩いて帰宅できた俺だったが、部屋に戻って来た瞬間に、緊張の糸が解けてしまったらしい。片手で持っていた鞄を床に投げ出し、ついで俺自身も床に転がってしまった。フローリングの床は、二月の冷気に包まれてやけにひんやりとしている。全身が火照っているせいで、そんなに不愉快には思わなかったけれど。


「直也君。酔ってるのは解ってたけれど、気分は悪くない? しんどかったら吐いちゃいなよ」

「吐くって、そこまでじゃあないさ。ただちょっと、頭がくらくらするだけ」


 よしんば吐き気があったとしても、可愛い美少女の前で吐くなんて事はやりたくない。芳佳は困ったように微笑みながら、すっと立ち上がった。


「私、ちょっと酔い覚ましになる物を用意するね。直也君、冷蔵庫とか食器とか勝手に使っちゃうけど大丈夫かな?」

「ああ、うん。大丈夫だよ芳佳ちゃん。あんまり自炊しないから、冷蔵庫とかも大したものは入ってないけど。というか水道水でも大丈夫だよ。食器もその辺のやつを使ってくれて大丈夫だから」


 これから上がり込んで一緒に暮らすかもしれないというのに、わざわざ家主たる俺に断りを入れる所に、多少のもどかしさと彼女の育ちの良さのような物を感じていた。芳佳はコートを脱いでその場に畳むと(これについても俺に許可を求めた)、早速酔い覚ましの用意に取り掛かってくれた。コートの下はカーディガンと紺色のロングスカートで、彼女はますます女子高校生っぽい出で立ちだった。まさか本当に高校生なのだろうか。だが妖狐だと言っていたし。

 

「あああ……見た目から大体想像はついていたけれど、やっぱり冷蔵庫の中も少ないねぇ」

「ははは、俺もさ、急に誰かが来るなんて事は想定してなかったから、その辺はちょっと勘弁してほしいかな」


 寝そべったまま首を動かしてキッチンの方に視線を向ける。芳佳は冷蔵庫の中身をチェックして、それで驚きとも何とも言えない声をあげていた。

 そりゃあまぁ自炊もろくにやらない一人暮らしの男だし、冷蔵庫の中身はスカスカなのは仕方がない。そもそも、俺にとって飲食はそれほど楽しみではない。むしろ苦痛を伴う時もあるくらいだ。別に摂食障害などではないとは思う。だけど食事を摂ったりコーヒーや紅茶の類を飲んだりした後、それも数十分か数時間後に、。頭がだるくなったり胸焼けしたりする感じだ。

 しっかりとした料理を摂ったり口当たりの良い飲み物を飲んだりする時ほどそういう事が起きるから、味の薄い菓子パンやサラダやら何やらで腹を満たし、水とか麦茶とかジュースで喉を湿らせるのが俺の常だった。


「でもさ芳佳ちゃん。何か冷蔵庫の中もまじまじ見られるとちょっと恥ずかしいかな」

「恥ずかしいだなんて今更ね」


 俺が思わず呟くと、芳佳は冷蔵庫をパタリと閉めてこちらを向いた。白狐の尻尾を左右に揺らす彼女の顔には、ほんのりと紅潮した笑みが広がっている。


「もしも冷蔵庫が空っぽな事が恥ずかしいんだったら、それも明日から解消されるよね。だって私がここで暮らすんだから、冷蔵庫の事とかお部屋の事とかもきちんと管理しようと思っているもの」


 芳佳はそこまで言うと、ちょっと考えこんでからおずおずと言い添える。


「……もちろん、直也君が嫌だったら考えるけれど」

「そんなそんな。君みたいな可愛い子が来てくれただけでも嬉しいのに、冷蔵庫とか部屋の事まで面倒を見てくれるなんて、もう至れり尽くせりじゃあないか」


 酔っているという事もあるにはあるが、俺の言葉はお世辞などではなくほぼ本心だった。仕事で忙しい身分としては、部屋の事や冷蔵庫の管理をしてくれる同居人がいてくれるだけでも色々と助かる。

 というか、芳佳は可愛いし女の子だし、まんま主婦の座でも狙っているのだろうか。

 ともあれ俺の言葉は満更でも無かったらしく、芳佳も嬉しそうに頷いていたのだった。

 ちなみに酔い覚ましは、一杯目は冷たい水で、二杯目は温かいレモネードだった。レモネードについては芳佳自身の分も作ったらしく、俺が半ば突っ伏するテーブルの上には、湯気の立つマグカップが二つ置かれる運びとなった。俺の許に置いてあるのは水色のマグカップで、芳佳の手許にあるのは淡いピンク色だった。二つのマグカップは色味こそ違えど形や大きさは同じだったのだ。食器も少ないと言えども色々あっただろうに、わざわざピンポイントで探し出したのだろうか。


「芳佳ちゃん。君と俺が使ってるマグカップって、実は色違いなだけでさ、大きさとかデザインとかは一緒なんだよ」


 レモネードを飲みつつ俺が言うと、芳佳は嬉しそうに微笑みながら頷いた。


「本当だね。何か夫婦茶碗みたいだよね。あ、でも夫婦茶碗はニコイチだけど大きさは違うんだっけ」


 セルフツッコミを行う芳佳もまた、自分が主婦のような立場になる事を意識しているのかもしれない。俺はそんな風に確信した。

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