第3話 唐突過ぎる少女との出会い

 出し抜けに視界に飛び込んできた少女の姿に、俺は面食らってしまった。真夜中とは言わずとも、子供が出歩くにはかなり遅い時間である。しかも、頭のもげた狐の像や静かに朽ちかけた神社の傍であるわけだし。

 この女の子は何者なんだ? 何がしかの事情があって外を出歩いているのか。幽霊とか怪異の類なのか。そもそも実在などしない、単なる幻なのか。少し用心しながら、俺は少女の方に視線を向けた。

 顔つきや服装からして、年齢は十五から十七程に見えた。まぁ大体高校生くらいだろう。大人びた風貌の中学生かもしれないし、あべこべに童顔で若作りな大学生や社会人の可能性もあるにはあるが。

 だがやはり、頬を赤く染めたその顔はどうにもあどけなく、見た目通りの少女だという事を物語っているように思えた。女子にしては背は高く、百六十の中ほどはあるように見えた。やや小ぶりの顔と長身も相まってすらりとした身体つきに見えたが、そもそもゆったりとしたライトグレーのコートを身に着けているので、実際の所身体の輪郭などは殆ど解らないのだが。セミロングの黒髪は真っすぐ下ろされていて、束ねていないにもかかわらずひと房の乱れすらない。


 ともあれ、声をかけるのも忘れて俺は少女の事を食い入るように眺めていた。彼女が美しい少女である事に気付いてしまったからだ。ライトグレーのコートはよく見たら古ぼけて薄汚かったが、それを身にまとう少女そのものは、愛らしく清らかだったからだ。

 俺がしばしの間片思いしていた木幡さんの顔が脳裏に浮かぶ。密かに想いを寄せ、藤原のボンボンに横取りされた事にショックを受けていたはずなのだが――彼女の顔を思い出しても、特に何の感慨も浮かばなかった。

 それから、俺は少女の瞳が動いた事に気付いた。俺は電気柵にぶつかった愚鈍な獣のように、びくっと身を震わせて後ずさる。自分がまじまじと見つめていた事に彼女が気付いてしまった。その事を悟ったためだった。

 俺は少女をただ見ていただけだ。だが、取り返しのつかない重大な罪を犯したような気分になっていた。二十六にもなる大人の男に見られていたとあれば、高校生くらいの女の子は烈しく嫌がるだろう。しかも、僅かと言えどもよこしまな思いすら抱いていたのだから尚更だ。

 俺はだから、少女から目線を逸らし、よろよろと立ち去ろうとした。彼女の唇が動き、言葉を発しようとしたのがコマ送りのように見えていた。ここでこの子が何事か叫べば、警察なりなんなりが駆けつける事は火を見るよりも明らかだ。


「――直也君、でしょ?」


 だが俺は立ち去らなかった。少女の放った言葉は、俺を足止めするのに十二分すぎたからだ。

 彼女は変態だの犯罪者だだのと俺を糾弾した訳ではない。彼女はただ、俺の名を呼んだのだ。その声には親愛の情が色濃く滲んでいた。顔を見ずとも満面の笑みを浮かべているであろう事がイメージできるほどに。

 名も知らぬ美少女に、親しみの籠った声音で名を呼ばれる。この奇妙極まりない状況に、俺の心も動いていた。何故だ。何故この子は俺の名を知っているのだ。そもそもからして、はみ出し物で孤独である事が運命づけられたようなこの俺に、どうしてこうも親愛の情を向けてくるのか。俺の心の表面は、不可解な出来事への疑問にて瞬く間に埋め尽くされていた。

 俺は今再び少女に視線を戻す。盗み見るなどと言ったこそこそした真似はしない。少女とは真っすぐ視線がぶつかった。少女は初めから笑みを浮かべていたが、俺と目が合う事でその笑みが深まったのを感じた。肩の中ほどまで垂らしてある黒髪が寒風に揺らぎ、腰の辺りでは白いフワフワした物が揺れているのが見えた。


「久しぶりだね直也君。今は元気……じゃあないよね。だって今の直也君、とっても寂しそうな匂いが漂っているもの」


 ひさしぶり。少女につられて放ちそうになった言葉を、俺は喉の奥に飲み込んだ。言葉と言い、その姿と言い、情報量が多すぎて混乱してしまったのだ。

 彼女はまるで、俺の事をかのように話しかけていた。それも、自分よりも年長であるはずの俺に対して弟か同年代の男であるかのように。人違いの可能性もあるだろうか? 直也と名を呼ばれているのは気になるが、そもそもナオヤという男児の名はそう珍しくもないし。

 もう一つ気になるのは、コートの後ろで揺れる白い物体だった。何をどう見ても尻尾にしか見えない。犬のそれと呼ぶには長く、猫のそれと呼ぶには太くて毛足が長いそれは、少女の言動に連動するように蠢いていた。手の込んだコスプレにも見えなくないが、それなら先程まで見えなかったのは何故か、という謎が浮き上がって来る。


「あの、ええと……」


 俺は両手を前に向けて動かしながら、少女に声をかけた。


「君は俺の事を何か知ってるみたいだけど……お嬢さん、俺は君が誰なのか解らないんだ。もしかしたら、君の思い違いかもしれないし」

「ぷふっ」


 俺のたどたどしい言葉に、少女は軽く噴き出した。こんな茶目っ気のある態度も見せるんだ。俺はそこについつい関心が行ってしまった。


「そっか。そうよね。直也君が戸惑うのもしょうがない話だよね。だって、あの時の直也君はまだちっちゃかったもん。十五、六年くらい前の事だったかしら。うん、直也君もお勤めで忙しいだろうし、そんな昔の事は忘れちゃうよね」

「お嬢さん……? あなたは一体……」


 事もなげに語られる少女の言葉に、俺の心の中では一層疑問が膨らむばかりだった。この子は俺が小さかった頃の事を覚えているだと? それにしてもの事を、だなどと言いだせるものなのだろうか。

 そんな事を思っていると、少女がこちらに歩み寄った。そして素早い動きでもって俺の手を取ったのだ。少女の白い手は滑らかで温かく、それでいて俺の手首を捉えた指の力は強かった。


「それにしてもあの時はお姉さんって言っていたのに、今では私の事はお嬢さん呼ばわりなんだね。やっぱり直也君も人間、だから、歳を取るのが早いんだね」


 自分は人間ではない。暗にその事を口にしつつ、少女は俺の顔を覗き込んでいた。彼女の瞳孔は丸くない。暗いから丸く広がってはいるものの、やや縦長だった。俺は知っている。獣の瞳が――猫や狐の瞳孔が縦長である事を。

 それとともに、俺は少女の正体を思い出していた。ああそうだ、俺は確かに、この娘と出会った事がある、と。


「改めて自己紹介するね。私は松原芳佳。あの時の直也君は狐のお姉さんって呼んでくれていたんだけど……思い出したかな?」


 松原芳佳はそう言うと、今再びにっこりと微笑む。口許から覗く白い牙や背後で揺れるまっ白なを眺めながら、俺はしっかりと頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る