第2話 夜の散歩と寂れた社

「おっ、猫ちゃーん。あんたも一人っきりかい」

「……」


 姿を現した茶トラの野良猫は、俺の姿を見るなりそのまま踵を返して走り去ってしまった。野良猫が去って行った方角を眺めながら、俺は言い知れぬ寂しさと虚しさを感じていた。ごみを漁るような、日々の暮らしに困り果てているような猫にさえ俺は避けられているのだ、と。

 失恋の寂しさを紛らわせるべく夜の街をさまよってみたものの、心の痛みはそう易々と癒えるものではなかったらしい。いや……まだアルコールが入っているからこの程度なのかもしれない。酒がもたらす酩酊感は、本来の感情をぼやかすのにうってつけだった。その分懐が寒くなるわ店のおやじに追い出されるわで色々ありはしたけれど。

 だから本当は、もうそろそろ家に帰らなければならないのかもしれない。アルコールに浸された脳の、それでもまだ理性的な部分が訴えかける。だが――家に帰った後の事を思うと、どうにも怖気が走った。一人暮らしの寒々とした部屋に俺は舞い戻るのか、と。

 何故だろうか。一人暮らしを始めてもう五年以上経つというのに、一人で夜を過ごすのが心底恐ろしいと思ってしまうとは。

 

「……ま、夜もまだ長いし、ブラブラしててもばちは当たらんだろう」


 今はまだ、家に帰るのは保留だな。帰りたいと思った時に、一人の夜が怖くないと思った時に家に戻ればよかろう。別に俺は子供でもないし。そんな風に思い直した俺は、夜の街を散策しようという気分でもって歩き出した。


 大通りを避けるように細道ばかり歩いていた俺は、いつの間にか小さな社の前に辿り着いていた。

 行き止まりの場所に鎮座する社は、俺にとっては見覚えのない社だった。というよりも、皆から忘れ去られ、それでひっそりと朽ちていっているような気配が色濃く漂ってさえもいた。

 それでも俺は、吸い込まれるように社の中に入っていた。夕方以降に神社でお参りをしてはいけない。そんな言葉が脳裏をかすめたが、その時にはもうペンキのはげた鳥居をくぐり、小さな境内の中に入っていた。だからもうお参りするつもりでいたのだ。

 猫の額ほどの境内ではあったが、玉砂利は敷かれてあった。そのせいで俺が歩くたびに、ざり、ざり、と石同士がこすれあう音が聞こえたのだ。むしろ街での喧騒はここからは遠く、俺の足音くらいしか聞こえないと言った方が正しいだろうか。

 そして境内の中には椿やら山茶花がやらが植えられており、所々真っ赤な花が落ちているのも目に付いた。


「これ、は……」


 七歩ほどで賽銭箱の前に到着した俺は、左右に視線をやってから言葉を漏らした。賽銭箱の前にある狛犬と思しき像は、いずれも無残に破壊されていた事に気付いたからだ。都合二対・四体ある石像と陶器の像は、どれも頭や尾の部分に損傷を負っていた。最もひどい物では、頭部がまるまるもげているようにしか見えないものもあったのだ。

 恐らくは……狛犬というか狐の像であろう事は、鳥居に記された「※※稲荷」というかすれた文字で察する事が出来た。稲荷では狐と相場が決まっているからだ。

 引き寄せられたとはいえ、とんでもない所に足を踏み入れたのだろうか。顔を潰され手足すらもげているかのような狐の像を前に、俺の脳内に侵蝕していた酔いが一気に吹き飛んでしまった。吐きたいと思わなかったのは良い事かもしれないけれど。

 だがそれにしても、ここで何もせずに帰るのは失礼だろう。それこそ古ぼけた神様や、頭のもげた狐たちに祟られるかもしれない。そんな風に思った俺は、とりあえずお参りをしてから帰る事を思いついた。お賽銭を入れてお参りをすれば、きっと神様たちも大目に見てくれるだろう、と。

 財布を探れば丁度良い塩梅に五円玉も見つかった。俺は半ば投げつけるように五円玉を賽銭箱に入れ、そのまま柏手を打った。鈴は鳴らさなかった。吊るされていたはずの鈴は、既に紐が朽ちて賽銭箱の隣に転がっていたのだから。


――神様仏様お狐様。どうか願い事を聞いてくださるのならば、この俺に纏わり憑く寂しい気持ちを吹き飛ばしてください。何故だか解らないけれど、俺はずっと寂しくて、孤独感を抱いてしまうのです。

 まぁその……もったいぶってしまったけれど、要は俺もそろそろ彼女が欲しいって事です。甘えん坊で尽くしてくれて、それで可愛くて色っぽい娘だったら嬉しいです。どうかそんな娘との出会いをプロデュースして下さい。ていうか俺は寂れくさって狛犬的なアレがぶっ壊れているのにも臆せずお参りしているんだぞ。だから神様だって俺の願いを聞いてくれるのが筋ってやつじゃあないか……


「うう、ちと妙な事も考えちまったかな」


 長々と目をつぶり手を合わせていた俺だが、ややあってから我に返って思わずぼやいていた。一人っきりで、しかも酒が入っているのを良い事に、俺は色々と考えをたくましくしてしまっていたらしい。

 だがとりあえずは、参拝はきちんと終えたのだ。俺は今一度頭を下げると、社と朽ちかけた狐の像に背を向けて境内を後にした。

 やはり外の喧騒からは程遠い小径にて、何かを待っているかのように佇む少女の姿を俺が見つけたのは、古びた神社の敷地から出た、まさにその直後の事だったのだ。

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