第9話
「
進次郎は、困惑した表情を浮かべた。がっしりとした
「鉄山殿。今はお控えください。町奉行の警戒が厳しくなっておりまする」
鉄山は諦める様子はない。真っ直ぐに進次郎を見つめて言った。
「女郎達も戻って来ているではないか。もう一度試してみれば、分かるかもしれぬのだ」
「しかし……」
「大丈夫だ。これで最後だ。だが、先日の女郎のように騒がれては困る」
あの日、鉄山と進次郎は
「姐さん、今晩一つ頼むよ」
お加代は振り返った。
「あら、お兄さん達、お
頭巾も着物も良い仕立てに見え、なかなか羽振りは良さそうである。明五郎のことで苛々していたお加代は、相手は誰でも良かった。
「そうだ。あまり表立って遊ぶと、
「ふふっ。相当好きなんだね。今日はたっぷり可愛がってあげますよ」
「それは楽しみだな。そこに駕籠を待たせてある。少し場所を移して良いか」
「ええ、構いませんよ。少し飲み足りないから、お酒もくださいな」
「わかった。美味い酒を馳走しよう」
そう言って、進次郎はふらふらするお加代を支えながら、土手を歩いて行く。
「あ、そうだ、先にお代を頂いていいかしら」
「すまぬ、すまぬ、これでどうじゃ」
そう言って、進次郎は懐から一両を取り出した。お加代は立ち止まり、急にきっと顔付きが厳しくなった。
「どうした? 少なかったか? 幾ら欲しいのだ?」
そう言って、進次郎は再び懐に手を入れた。お加代の顔付きは益々厳しくなる。
「ちょいとお武家さん、幾らなんでも
三十文足らずが相場の夜鷹の相手に、一両は大金過ぎるのである。
「なんだ? こちらが気前よくだそうと言うのに妙な奴だな」
お加代は、頭巾から覗く二つの目をじーっと見返した。
「人はね。なるべくなら金を渋るもんさ。出した分の見返りか、裏がある……」
進次郎は、声を荒げた。
「おい、
「ふん、五月蝿いよ、この田舎侍。あんた、何を企んでいるだい?」
「好き勝手言いおって、この化け物め!」
「化け物……。ずいぶんな言い草だね。化け物を買おうとしてたのかい?」
はっとして、お加代は後ずさりを始める。
「あんた……まさかかまいたち??」
「ぎゃーっ」
断末魔を上げ、お加代はそのまま崩れ落ちた。
「どうだった?」
「ああ、ちょ……」
と、言って蕎介は手を上げて縁側に座り込んだ。駆けて来たのであろう、息が乱れている。
「おい、誰か水を持って来てくれ」
屋敷の奥へと、釼一郎は声を掛けた。女中がいそいそと、盆に乗せて湯呑みを運んで来る。釼一郎は湯呑みを受取り、蕎介に手渡した。蕎介は一気に飲み干し、フーッと息を吐き、呼吸を整えると言った。
「分かりました。太田鉄山に違いありませんぜ。
釼一郎は無言で聞いている。
「その時は、誰かが連れ込んでお楽しみかと、覗きに行ったそうで、そこで……」
「夜鷹よたかが施術されているのを見たのだな?」
蕎介は何度も頷いた。
「はい……。中間も誰かに喋りたかったんでしょうね。酒をしこたま飲んだら、自分から語り出しましたよ。恐ろしい光景だったようで……。でも、女は声も上げずにされるがままだったと。普通、あんなに切り刻まれたら泣き叫ぶのに、不思議だったと言っておりました」
「なるほど……」
釼一郎は腕組みをした。空には暗雲が立ち込め、ポツポツと
昨日の雨は一晩中降り続いていたらしい。朝には雨も止んでいたが、所々に
「久しぶりだな。釼一郎殿。医術の道を捨て、今では
釼一郎は、深々と頭を下げた。
「鉄山様は長崎の後、紀州の華岡青洲殿の下で医術を学んだと聞いておりました。そこで、
通仙散は華岡青洲が調合した麻酔薬のことで、青洲はこの薬を使い文化元年に乳癌手術を成功させている。
「流石に鋭いな。しかし、ちょっと違う。青洲殿は、私には通仙散の調合を授けてはくれなかった。そこで、私は
阿芙蓉、
「通仙散は、患者の負担が大きいようだ。阿芙蓉の麻沸散が確立されれば、救われる命も多いのだ」
「患部を切り取って、瘡毒が治療出来るのですか?」
「それは分からぬ。私の興味は麻沸散しかない」
「それはあまりにも無責任な。夜鷹の命をなんだと思っているんですか」
釼一郎が声を荒らげる。鉄山は表情を変えない。
「医術が大きく変わるのだ。女郎の一人や二人なんだと言うのだ。どうせ、醜くなって死んでいく女達ではないか。お主も医術を志した者なら分かるであろう?」
「分かりませんね」
そう言って、腰の刀に手を掛けた。
「ほう、俺を斬るつもりか? 面白い。進次郎殿、よろしく頼む」
鉄山がそう言うと、進次郎が前に出た。
「進次郎はタイ
進次郎は釼一郎をじろじろと眺めた。
「ありがたい。夜鷹など斬るより、たまには腕の立つ奴とやりたい」
後ろで聞いていた、明五郎の眉がぴくりと動いた。無言で、釼一郎の前に出る。
「お主がやるのか?」
「夜鷹を斬ったのは、あなた様ですか?」
「そうだ。お主の女であったか? それはすまなかった。殺すつもりはなかった。だが、俺が手を下さなくても、鉄山殿の施術で死んでいた女だ。俺のせいではない」
「許さぬ」
明五郎が、刀に手を掛けて腰を落とした。釼一郎が後ろに下がる。
「許さぬならどうするのだ」
進次郎も、腰の刀に手を掛ける。刀を抜かぬまま、二人がじりっ、じりっと間を詰める。
明五郎の手が動き、抜き打ちに斬りかかる。進次郎も抜刀すると同時に、明五郎の刀を跳ね上げた。明五郎の体勢が崩れる。進次郎はそのまま袈裟がけに振り下ろす。明五郎は倒れるように身を捩って、太刀を
息つく間もなく、次の袈裟がけが襲ってくる。明五郎は地面を蹴って、大きく間合いを取った。
明五郎は青眼に構え、進次郎は右半開に構える。進次郎が飛び掛かってくる。一見大振りな太刀に見えるが、その
飛んだ弾みで体勢が崩れ、明五郎は地面に手をつける。明五郎の立ち上がりに、間髪いれず進次郎が斬り込んでくる。明五郎は握った砂利を顔に投げつけた。進次郎は首を振って目潰しを躱し、そのまま刀を振り下ろす。明五郎が刀で受ける。進次郎の体勢が変わった分だけ、明五郎が有利である。ぐっと押し込んだと同時に、右足で金的を蹴り上げる。進次郎は後ろへ自ら飛んで、蹴りを躱した。
「ふんっ。目潰しに金的か。剣で勝てぬからと
確かに明五郎は実力差を感じていた。剣の才では進次郎の方が上であろう。何と言われようと、敵の虚をつくしかないのだ。しかし、タイ捨流も実戦向きの剣である。明五郎の手の内が読まれているかのようであった。
─このままでは負ける……。
明五郎の頭に死の影が過った。
だが一方で、死と隣合わせの緊張感を楽しんでいる己にも気付いた。つい先日までは己の身の上を、己の心の弱さを呪っていた。
自分が世の中で不要な存在だと感じ、自害を考えたのも一度や二度ではない。だが、生にしがみついていた。貧乏浪人暮らしを馬鹿にされながらも生きていた。お加代の仇討ちも、お加代のためなどではないかもしれない。自分が生きる意味を持ちたいだけなのかもしれぬのだ。
明五郎の顔に自然と笑みが浮かんだ。
「薄気味悪い奴だ」
進次郎はそう言い捨てると、袈裟懸けに鋭く斬り付けて来た。応えるように明五郎も進次郎の懐へ飛び込んでいく。決して
明五郎は信じていた。
絶望の中でも、来る日も来る日も剣を振り続けていた己を。仕官の為ではない。明五郎にはこれしかなかったのだ。剣を振るうことだけが、己の生きている証だったのだ。己の全てをかけて、それで斬られるなら、それで良いではないか。
進次郎は明五郎の太刀筋を完全に見切っていた。
─紙一重で俺が勝つ。だが……。
あまりにも素直過ぎる剣に、進次郎は疑心暗鬼になった。先立ってのような小細工があるのか、ないのか。明五郎の全身の動きを見逃すまいと神経を研ぎ澄ませた。
これが命取りになった。明五郎の真っ直ぐな剣は、予想を超える速度で進次郎の身体を斬り刻んでいた。
進次郎は血しぶきを上げながら、後ろにどうと倒れこんだ。
明五郎が進次郎を倒したのを見て、釼一郎が鉄山に近付いた。鉄山は懐から
「残念だが、俺は果し合いには興味はない」
「お止め下さい。儂は鉄山殿を斬りたくはない。長崎で貴方は貧しい者を救いたいと、夢を語ってくれたではないですか」
「残念ながら、あの頃の俺はもういない。貧しき者は、病から救っても変わらぬことに気付いたのだ。また目先の欲望に溺れ、再び病になるだけ。富める者は違う、命を救えばまた富を生み出す。必要とされる場所で、腕を奮ってどこが悪いのだ」
「金で道を見失いましたか……」
「偉そうに説教が出来た義理か。お主らは、死体で金儲けをしているではないか」
鉄山は短筒の引き金に指を掛けた。その瞬間、釼一郎が抜き打ちに斬った。鉄山の右腕が宙に舞った。
茶室では朝右衛門が茶を点てている。
一輪の紫の朝顔が生けられ、夏の盛りをあらためて感じさせてくれる。釼一郎の前に、朝右衛門が黒茶碗を差し出した。漆黒の中に、淡い緑がたゆとうている。極め細かい茶がふんわりと口の中に広がった。
鉄山のことは朝右衛門を通し、幕府の
結局、釼一郎は鉄山を斬ることができなかった。
長崎時代の鉄山は、多くの人々を救いたいという一心で医術を学んでいたはずだった。だが、道を見失った。人の心とはなんと脆いものなのだろうか。
「何を考えこんでおる?」
考えこむ釼一郎に朝右衛門が語りかけた。釼一郎は我に返ると、茶碗を下ろして笑みを浮かべた。
「いや、一句浮かびましてね」
「ほう」
「こんなのはどうです? 死んだ者 生かして稼ぐ
「……死んだ者 生かして稼ぐ 様者。なるほど……。
朝右衛門は苦笑いを浮かべながら、何度も何度も頷いた。
─完─
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