第5話

 牢から解放された明五郎あきごろうは、朝右衛門あさえもんの屋敷で、湯に入り汚れを落として、借りた着物に着替えてすっかり身綺麗みぎれいになっていた。

 茶に招かれ、茶室で初めて朝右衛門と対面する。風炉ふろの前に座った朝右衛門は、白髪の混じった老年だが、すっと背筋が伸び、歳を感じさせないどころか秘めたる活力が伝わってくる。数知れない人の死に様に立ち会ってきたからなのだろうか、高僧のような霊妙れいみょうさをまとっている。

 明五郎は床の間に視線を移した。黒の花入れに白い躑躅つつじが生けられ、初夏の息吹いぶきを取り込んでいた。

 掛けられた山水画さんすいがには、福禄寿ふくろくじゅのようにのっぺりとした姿の山が遠景に描かれており、山村を縫って流れる水が、川となって画面手前に迫っている。水面みなもには舟が浮かび、漁師が釣りをしている。のんびりとした風景に、故郷の穏やかな日々を重ね合わせた。

「気に入ったかな? 儂の一番のお気に入りでな。季違きちがいだが、掛けさせてもらった」

 朝右衛門が明五郎に声をかけた。明五郎は我に返り、目の前の老人に視線を戻した。

「き、きちがい? どなたが描いたのでしょうか?」

大雅たいがよ」

 答えに戸惑いながら、明五郎はもう一度絵を眺めてみる。描かれた川は、あまり大きくないように見えた。

大河たいがですか……。唐土もろこしの河でしょうか」

 朝右衛門はにこにことしながら、首を振って言った。

「いやいや。池大雅いけのたいがだ」

 山水画と朝右衛門の顔を交互に見ながら、明五郎は口ごもる。

「いけ……?? たいが?」

 困惑した明五郎の顔を見て、朝右衛門は大きく仰け反りながら笑った。

「面白い、実に面白い」

 笑われたことに、明五郎は顔を赤くしてうつむいた。

「も、申し訳ありませぬ。書画も茶の作法もうといもので、失礼を致しました」

「いいのだ、いいのだ。作法など気にせず、儂の茶を楽しんでくれればいいのだ」

 と、朝右衛門はにこやかに言うと、茶碗に向き直り、茶をて始めた。茶筅ちゃせんを素早く動かすと、軽やかな小気味こきみよい音が生まれる。音が止まると明五郎の前に、燃えるような赤の茶碗がすっと置かれた。

 これまでに数えるほどしか茶席に呼ばれたことがなく、すっかり作法など忘れていた明五郎であったが、朝右衛門の持つ空気感で緊張が少し緩んでいた。

 明五郎は茶椀を手に取って持ち上げた。姿こそはごつごつとしているが、手に持つとよく馴染み、茶碗の赤と抹茶の緑が互いに色鮮やかに引き立たてあっている。姿勢を正して、ゆっくりと口に運んだ。ふわっとした口当りと程よい苦味が広がる。飲み終えて茶碗を置くと思わず口が開いた。

「素晴らしいお茶でした。なりより、茶碗の見事なこと……。この茶碗はなんと言う茶碗なのですか?」

 朝右衛門は笑みを浮かべた。

「ふふっ。決まり事でなく、素直な言葉のなんと嬉しいものよ。その茶碗は楽焼らくやき赤茶碗。本阿弥光悦ほんあみこうえつの作だ。と、言っても写しだがな。血と縁が深き我らに、相応しい茶碗だと思うておる」

 もう一度明五郎は茶碗を眺めた。

 首斬りを生業にする山田家と聞けば、粗野そやであるかのように誤解してしまうが、文化人としての教養も持ち合わせている。

 斬首の際、辞世を詠む者の字が読めなかったり、意味が分からなくては面目も立たないということで、三代目吉継よしつぐから風流を心がけるようになったという。吉睦よしむつは、凌宵堂寛洲という俳号も持っている。

 朝右衛門は言葉を続ける。

「そなたのことは、釼一郎から良く聞いておる。その通りだな。真面目も真面目、糞がつく真面目だ」

 頭をかきながら、明五郎は苦笑いを浮かべた。

「釼一郎殿は、昔からあのような飄々ひょうひょうとした方だったのですか?」

「大筋は変わっておらぬ。聞いたかもしれぬが、あれも、不憫ふびんな身の上でな」

「確か、小さき頃父上が出奔しゅっぽんしたとか」

「そうだ。行方知れずになった。それで縁のあるここの養子になったのだ。明るく振る舞っておったが、努めて道化どうけを演じていたのかもしれぬな」

 しみじみと朝右衛門が語った。そこへ、がらりとふすまを開けて、釼一郎が入って来た。二人を見ると、にやりと笑う。

「誰の噂をしているのですかな」

「ふふっ、お主の昔話をしておったのだ。十六の時だったかの。斜向はすむかいの娘に夜這よばいに入って、婆に長刀なぎなたで追い回されたのは」

「十五ですよ。まったく、親父様にはかないません」

 三人は声を上げて笑った。釼一郎は思い出したように、明五郎に言った。

「そうだ、やっこさん来ましたよ。では、明五郎さんを借りて行きますよ」

 と言って、明五郎を手招きした。明五郎も応じて立ち上がった。


 客間には、神妙しんみょう面持おももちで蕎介が座っている。出された茶にも手を付けず、肩を落としてすっかり意気消沈いきしょうちんしていた。面倒を避けた剛三が、話を大きくした原因の蕎介を、山田家に差し出した格好になっていた。

 釼一郎と明五郎が入ってくると、蕎介は畳に額を擦り付けるようにひれ伏した。

「この度はなんとお詫びすりゃいいのか……。すみません」

「おぃ、すみませんで済むと思ってるのか?」

 釼一郎がすごんだ。蕎介は頭が畳にめり込まんばかりに、さらに擦り付ける。

「すむとは思っちゃいませんが、す、す、すみません」

「そんなに脅かさないでいいじゃありませんか。蕎介さん、もう面おもてを上げてください」

「い、いえ、そんな……」

 蕎介は畳に額を擦り付けたまま、首を振った。

「明五郎さん、あんた本当にお人好しだねえ。この男のせいで、さんざ拷問にあったんだぜ」

「本当にいいんです。あれは罰だと思ってるんです。姐さんを救えなかったことの……。だから、本当に顔を上げてください」

 蕎介は、ひれ伏したまま、顔をそっと上げて明五郎を見た。その表情に怒りの色はなかった。

「おいっ、聞いたか? お前、命拾いをしたな」

 蕎介はゆっくりと起き上がり、座布団に座り直した。

「あ、ありがとうございます」

「畑中さんを倒した時、背後から槍で刺したことは武士同士の戦いのこと、恥ずべきことは何もないと思っております。ただ、この刀は……。お前にやるとは言われたものの、私のような落ちぶれた者が持つには過ぎたる物。お主の方で墓前に供えるなり、良きようにしてくだされ」

 と言いながら、明五郎は腰から鞘ごと刀を取って蕎介の前に置いた。蕎介はあたふたと両手を振りながら言った。

「と、とんでもない。あっしがお侍方の心情を察せず勝手に騒いだせいで、今回の騒ぎになったんです。あっしにあれこれ言う資格なんぞありません。畑中さんがくれたんなら、どうぞ貰ってください」

「そうですよ。明五郎さんには、この山田家で働いてもらうのです。それなりの業物わざものを持ってもらわないと」

「え……。ここで?」

 明五郎は驚いた顔で、釼一郎を眺めた。釼一郎は破顔はがんして答える。

「ええ、不浄ふじょう生業なりわいとは言え、据物すえもの斬りを極めれば仕官の道がまた開けますよ。もう、嫌とは言わせませんよ」

「そ、それは、願ったり叶ったりですが……。本当に良いのですか?」

「親父さんもすっかり明五郎さんのことを気に入っているんだから、儂が言ってどうこうなるもんじゃない。条件としては、そうですね。もう博打ばくちは止してくださいよ。明五郎さんには博才はありゃしないんだから」

「はい。もう博打はこりごりで」

 明五郎は頭を垂れた。釼一郎は蕎介に向き直って言った。

「おい、お前にもしっかり働いてもらうぞ」

「へ、へい。なんなりと申し付け下さい」

 蕎介は何度も頭を下げて言った。釼一郎はポンと肩を叩いた。

「じゃあ、早速で悪いが同心どうしん達に話を聞いてきてくれ、戻ってきたら一杯やりながら、かまいたち退治の策を練るとしよう」



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