第4話 怪物

 沖に浮かぶキャラック船の甲板には、三人の男女が立っていた。

 「波止場で船が燃えていては港に近付けないでしょう」薄布で両胸と陰部のみを隠した若い女が言った。「だから、私の魔法で燃えている船を海の底に沈めてあげる、って言ってるのに、一体何が気に入らないのチャンドラー?」

 「こちらが派手に動けば、旧約神書派の連中が警戒しかねない。港に近いあの丘で先程まで戦闘が行われていたのだから、なお更だ」チャンドラーと呼ばれた中年の男はフード付きのローブをまとっていた。「それにアリシア、お前がやりすぎないという保証もないだろう。保護すべきユスターシュ・ドージェまで海の藻くずになったならば目も当てられない」

 「新約神書における崇高な神様が、信徒である私の魔法でくたばっちゃうなんて、それはそれで笑い話になるじゃない」アリシアは両胸の薄布の位置を直した。「私、笑えるのは好きよ」

 「売女、口を慎め」細身で長身の若い男が言った。「神を侮辱することは許さん。貴様もだ、チャンドラー。女の卑しい魔法ごときで神に危害は及ばない」

 「信心深いユゴー」アリシアは艶のある微笑みを若い男に向けた。「神書の八章十一節、姦淫に汚れた女をユスターシュ・ドージェは許したもうた」

 その声を聞いて、ユゴーの目が血走った。

 「汚れた旧約神書で神を語るなどと!」

 言い終わるや否や、呪文を唱え始める。それに合わせて、アリシアとチャンドラーも呪文を唱え始めた。

 最も早く呪文を唱え終えたのは、チャンドラーだった。どす黒い光がともった両手を、ユゴーとアリシアに向ける。

 「殺し合いはユスターシュ・ドージェの護送が済んでから好きなだけやればいい」

 二人は、呪文を中断した。

 ユゴーは小声で悪態をつき、アリシアは大きなあくびをした。

 二人の様子を確認してから、チャンドラーは両手にともったどす黒い光を消した。時を同じくして、港のほうで動きがあった。造船所から馬が四頭、外へ出てきたのだ。その内の二頭には人間がまたがっている。一人は、厚い布で包まれた赤ん坊を腕に抱いていた。

 波止場で燃え上がるキャラベル船から造船所へと火が移っていた。

 火はどんどん勢いを増し、水面を染める赤色は広まり続けた。

 波止場から少し離れた砂浜で、赤ん坊を抱いていないほうの男が、キャラック船にカンテラを向けた。男が呪文を唱えると、カンテラの火が紫色に変わる。その後も火は様々な色に変わった。

 「火の色を利用した信号だ」チャンドラーが港を注視しながら言った。

 「なんて言ってるか分かる?」アリシアが尋ねた。

 「暗号化されていて分かりようがない」

 アリシアはため息をつき、ユゴーを見やった。

 「どこかの誰かさんが船の乗員を皆殺しにしなければ、暗号を解読できたのに」

 「神の教えを歪める旧約神書派は、一時の延命も許さずに罰しなければならない」ユゴーの青白い肌に、ぎらつく目が際立った。「それが神の御心だ」

 海雲の透き間から差した星明りが、キャラック船の甲板を照らし出す。そこは血まみれで、人間の死体が十三体も横たわっていた。ほとんどの死体が凍傷によって全身を浅黒く膨らませている。

 「返信がなければ怪しまれる。それで陸路に逃げられればユスターシュ・ドージェの奪取は困難」チャンドラーは悠長に腕を組んだ。「さて、どうしたものか」

 「今すぐ港へ乗り込み、旧約神書派の連中を皆殺しにし、神を我らの手に取り戻す。それだけのことだ」ユゴーは船首のほうへ歩いていった。「私が行く。正面からな」

 「まさか、無策ではあるまい?」

 「虚偽。それが策だ」

 「それを無策と言うのだ」チャンドラーは首を横に振った。「ユゴー。私の魔法をお前にかけよう。位置入れ替え魔法だ。ユスターシュ・ドージェの奪取の助けになる」

 「位置入れ替え魔法?」フードに隠れたチャンドラーの目元を、ユゴーはのぞき込んだ。「聞いたことのない魔法だ」

 「私の取って置きだ。言葉通りに、位置を入れ替える魔法」

 そう言い終えてから、甲板に横たわる死体の一体を指差し、不明瞭な声でつぶやく。死体が僅かの間、発光した。

 「後はお前に同じ魔法をかければ、この死体とお前の位置を私の判断でいつでも入れ替えられる」

 「勝手な真似をするな」指を差されそうになって、強い語気で制止する。「得体の知れない魔法をかけられるなど御免だ」

 「臆病なユゴー」アリシアが笑った。

 「慎重な、に訂正しろ、売女」

 「敵に正面から向かっていこうとする人間は、慎重ではないでしょう」

 「くだらない口喧嘩を繰り返すな」顔を赤くしたユゴーの開口を、チャンドラーが制した。「ユゴー。私はメディチ家の人間、最も新約神書に敬虔な家系の人間だ。此度のユスターシュ・ドージェの帰還、それによるローハ帝国の崩壊をメディチ家は熱望している。どんな犠牲を払ってでも、ユスターシュ・ドージェは我々が庇護する覚悟だ。お前はどうだ、ユゴー? 私の魔法でユスターシュ・ドージェ奪取の成功率を上げるか、我を通して成功率を下げるか。今まさに信仰が試されているぞ」

 赤みがすっかり消えて顔面蒼白になったユゴーは、天を仰ぎ、目をつぶり、喉に右手の平を当て、その手の甲に左手の平を重ねた。それは、新約神書派の祈りの型だった。

 「疑り深く、神への奉仕よりも己の保身を優先したこのユゴーめをお許しください! ユスターシュ・ドージェ、我らが親愛なる唯一の神よ!」

 おえつで乱れた声は呼吸もろとも荒く、しかし数秒のうちには全身の震えも治まった。そうしてチャンドラーに向けた顔は、不気味なまでの無表情だった。

 「俺に魔法をかけろ」

 チャンドラーは言われた通りにした。先程、死体に起こったのと同じ現象がユゴーにも起こった。

 「手袋は外しておけ。お前の素肌に触れているものしか一緒に位置を入れ替えることができないからな」チャンドラーは自身の顎ひげをなでた。「死体との距離が離れすぎれば位置の入れ替えができなくなる。港からは離れすぎるなよ。こちらも可能な限り船を港に近付けるがな」

 キャラック船の舵と帆を操作していたのは、チャンドラーが呼び出した五匹の使い魔だった。どれも体長2メートル以上の筋骨隆々な体をしていて、真っ白な肌を持ち、牛と豚を合わせたような顔をしている。使い魔たちが鼻息を吹くたび、船上の塵が舞い上がっていた。

 「神をこの手に抱いたとき、合図を送る」外した手袋を投げ捨てる。「季節外れの雪が降ったならば、魔法を発動しろ」

 ユゴーは船首に立った。陸から吹いてくる強風をもろに浴び、長い黒髪が激しくなびく。

 ユゴーが呪文を唱えると、靴が冷気を帯びて、木製の船首を凍て付かせた。それから、跳躍。足から海に着き、しかしユゴーは沈むことなく、一瞬で凍り付いた海面に立った。

 一歩を踏み出すごとに、海面に氷の道が出来ていく。キャラック船から500メートルほどの距離にある港に向かって、ユゴーは走った。


 「船から誰かが近付いてくる」馬にまたがっている男が、飛んできた火の粉を払いながら言った。

 「なぜだ? 追手に船を攻撃される可能性があるから海岸沿いを北上したところにあるもう一つの隠れ港で合流しよう、と信号を送ったのに」馬にまたがり、赤ん坊を抱いている男が言った。

 「ジョン。あの船は間違いなく味方の船なんだな?」

 「ああ、間違いないよ、ジェームズの旦那。あれは俺の親父がこの計画のために造った船だ」

 「確かなんだろうな?」

 「子供のころから親父の造船の仕事を見てきたんだ。見間違えたりしない」

 造船所からの火の粉を怖がり飛び跳ねた、人を乗せていない二頭の馬、その手綱をまとめて持つジェームズの逞しい右腕は、容易に二頭の動きを制した。

 「味方の船でありながら、信号に答えず、こちらの意図とは裏腹に人を寄越した。丘のほうでの戦闘に危機感を覚え、急いで赤ん坊を船に乗せようと動いたのか。あるいは、俺たちの計画が漏れていて、ユスターシュ・ドージェの力を欲する他の勢力に船を乗っ取られたか」

 「どうする? 一度ダルトンたちと合流するか?」丘のほうに目を向けて、ジョンは言った。

 「追手を全員倒したのであれば、ダルトンたちのほうからこちらへ来るはずだ。来ないということは、まだ追手を仕留め切れていないということ。そんなところへ、その子と馬を連れて行くべきではない」

 「それなら、どうするんだ?」ジョンの顔が焦りで歪んだ。

 「近付いてくる奴が敵か味方か、見極める」

 既にユゴーは港から80メートルほどの距離にまで近付いてきていた。

 「止まれ!」ジェームズが大声を出した。

 ユゴーは走ることこそ止めたが、なおも歩いてジェームズたちに近付いた。

 「止まれと言っている!」

 「心配するな! 味方だ!」歩を止めず、ユゴーは言った。「あの丘での戦闘が気掛かりで、ユスターシュ・ドージェをすぐにでも安全な場所へお連れするために、やってきた!」

 「なぜ私たちが送った信号に答えなかった!」

 「丘での戦闘が私たちを焦らせたんだ! 信号を送り返している時間はないと判断した! 実際、こんな悠長な問答をしている場合ではないだろう! 一刻も早くユスターシュ・ドージェを安全な船上へ! 私に彼を手渡してくれ!」

 「信号は届いていたんだな! では、信号が何を伝えていたか、言ってみろ!」

 「味方を試すような真似をしている場合ではないだろう!」ユゴーは少し歩を速めた。

 「三秒以内に答えなければ攻撃する! 三! ニ! 一!」

 「すぐそこの浜に船を寄せろと伝えてきたんだろう!」

 ユゴーが言ってすぐ、ジェームズは左手に持っていたカンテラを落とし、呪文を唱え始めた。

 嘘がばれたことを認識したユゴーは、瞬く間に恐ろしい形相を作って、叫んだ。

 「戻られた神は罪深き世界に報復する! 聞け、虐げられた者たちよ、憎しみの発露を神はお許しになった!」

 「新約神書、一章一節・・・・・・」つぶやいて、ジョンの顔から血の気が引いた。「あいつ、新約神書派か」

 ジェームズが呪文を唱え終わると、ユゴーの近くの空気が一瞬で圧縮された。急激な気温の上昇を察知したユゴーが真横に跳んだのと同時に、圧縮された空気は発火点に達し、爆発を起こす。

 吹き飛ばされながらも体勢は崩さず、ユゴーは凍り付く海面に両足を着いた。ユゴーが身に付けていた長袖の上着、その左肩の部分は爆発によって破れている。そこからのぞく左肩は、骨にこそ大きな損傷はなかったものの、火傷と裂傷で皮膚はおろか肉までもが爛れていた。更には、左耳の聴覚が正常に機能しなくなっている。それでも平然としているユゴーは、呪文を唱えながら、ジェームズたちに向かって走り出した。

 「ジョン。ダルトンたちと合流し、陸路で北へ逃げろ」ジェームズは声を潜めて言った。

 「しかし、ダルトンたちのところには追手がいるんだろう?」

 「不朽体の守り人たちのほうが、新約神書派より危険じゃないさ」

 ジェームズが二頭の馬の手綱を押し付けるようにしてジョンに手渡した。その時にはもう、ユゴーは呪文を唱え終えており、魔法で作られた氷の投げ矢が右手に握られていた。

 手綱を手渡す際にできた隙を見逃さず、ユゴーは氷の投げ矢をジェームズ目掛けて投げた。しかし、走りながらの投てきだったことで狙いを外したそれは、ジェームズがまたがる馬の横っ腹に突き刺さった。

 ジェームズは、馬の横っ腹を見下ろすと、すぐに地面へ身を投げた。氷の投げ矢が突き刺さったところから、馬の体がどんどん凍り付いてきていたのだ。

 ジェームズが地上で体勢を整えたとき、既に馬は氷像のようになっていた。

 「大丈夫か!?」

 「俺に構うな! 行け!」そう叫んですぐ、呪文を唱え始める。

 ジョンは迫ってくるユゴーを見やり、左肩の負傷を意にも介さない姿に恐怖を覚えた。

 右腕でしっかりと赤ん坊を抱き直し、三頭分の手綱を左手で強く握りしめ、ジョンはダルトンたちがいる丘のほうへと馬を走らせた。


 ジェームズたちとユゴーが接触する少し前、ダルトンは大剣の切っ先を倒れたカフカに向けたままで呪文を唱えていた。

 ダルトンの魔法が発動して伸び上がった草が、カフカの右の肩甲骨付近に刺さった短刀に絡みつき、それを乱暴に引き抜いた。カフカの体がびくっと震え、傷口から大量の出血が始まる。伸び上がった草は短刀を地面に落としてから、カフカと地面の間に滑り込み、そのまま右半身を押し上げて、カフカを仰向けに寝かせた。

 カフカは両眼を閉じ、浅い呼吸をしていた。

 「やっぱり生きてやがったな」カフカの顔を憎々しげに見下ろしながら、ダルトンは言った。「気絶してるのか、お前。このまま眠るように死なせたりはしないぞ」

 ダルトンは大剣を地面に突き刺し、カフカに馬乗りになった。そうして、カフカの両頬を交互に平手打ちする。

 「目を覚ましやがれ! うじ虫野郎!」

 八発目の平手打ちで、カフカは両目をうっすらと開いた。強く叩かれ続けた両頬が大きく腫れ上がった。

 「おはよう」怒りで歪んでいた顔を更に恐ろしい形相に変え、ダルトンは立ち上がり、大剣を引き抜き、その切っ先をカフカの首の左側面に当てた。「ゆっくりと切り進めてやる」

 大剣が首の皮に切り込んだ。もうろうとした意識のなかにも痛みを感じ、カフカは苦痛の声を漏らした。

 「もう止めろ!」

 そう叫んだゲイブの左手は、白い光を点し、ダルトンに向けられていた。

 ダルトンは、ゲイブをにらんだ。

 「何の真似だよ」

 「無抵抗な相手を殺すなんて許さない」

 「最初の追手の連中は殺しておいて、今更そんな綺麗事を言うのか?」

 ゲイブの表情が陰った。

 「この金髪やお前の足下に転がってる赤髪だけは殺さない? ふざけるな! 何だって兄貴の敵だけを生かしておかなければならないんだ! やりたくもない殺しはやって、やりたい殺しはやらないなんて、理不尽が過ぎる! 俺はやるぜ! こいつは絶対に殺す!」

 大剣が皮よりも深く切り込む。カフカは悲鳴を上げた。

 「今、この二人を殺すことは必要に迫られていることじゃない! 個人的な感情による殺人を、私は黙認しない! それ以上、彼を傷付けたならば、魔法を放つ!」

 「力ずくで俺を止めようってか、ゲイブ。お前がその気なら、俺も力ずくで我を通す!」

 ダルトンはカフカの首から乱暴に大剣を離し、坂を駆け上がり、ゲイブへの接近を試みた。予想外な行動にうろたえたゲイブが後退る。ちょうどその時、ジェームズがユゴーに放った魔法の爆発音が響き渡った。

 不意に聞こえた音に意識が向き、ゲイブとダルトンは港のほうを見やった。

 「ジェームズの・・・・・・ジェームズさんの魔法の音だ」ダルトンの恐ろしい顔が、見る見るうちに優しくなっていった。「ゲイブさん、何かあったんでしょうか?」

 ダルトンの極端な変わりように面食らいながらも、すぐに気持ちを切り替え、ゲイブは港に向かって走り出した。

 「一緒に来い、ダルトン! ジェームズさんたちと合流するぞ!」

 ダルトンをカフカたちから遠ざけたい意図もあって、ゲイブの命令口調は強かった。そんなゲイブの思惑とは裏腹に、ダルトンはすぐに動き出さず、視線をカフカへと向けていた。

 カフカは、首の傷からも大量に出血して、意識を保っているのがやっとの状態だった。その哀れを誘う姿に、再び湧き上がったダルトンの怒りは静められた。

 「怒ると見境がつかなくなる。それが僕の悪いところだって、何度も兄さんに注意された」カフカから、息絶えている小柄な男へと視線を移し、ダルトンは涙を流した。「ごめんね、兄さん。万が一、止血をされたら、彼は生き残ってしまうかもしれない。敵をちゃんと取ってやれなくて、ごめんね」

 ダルトンも港に向かって走り出した。涙をぬぐい、よどみのなくなった瞳に、坂を駆け降りるゲイブと坂を駆け上がるジョンの姿がはっきりと映る。

 「新約神書派とジェームズの旦那が交戦している! 船は新約神書派に乗っ取られた! 早く馬に乗れ! 陸路で逃げるぞ!」

 ジョンが叫び終えたのと同時に、キャラック船の近くの海水が耳をつんざく音を轟かせながら空高く噴き上がった。カイル、ダルトン、ジョンは揃ってキャラック船のほうを見やり、そうして、海水と共に空へ舞い上がった巨大な生物を目にした。不快にくねる、蛇みたいな体。

 噴き上がった海水が滝のように落ちて、巨大な生物は海に潜り、そのまま港へ向かって泳ぎ出した。

 「召喚魔法だ!」

 そう叫んだジョンは、急いでゲイブのそばに寄り、馬一頭の手綱を手渡した。

 ゲイブは少し手間取りながらも乗馬を済ませた。

 駆け寄ってきたダルトンにジョンはもう一頭の手綱を手渡そうとしたが、それよりも先に、巨大な生物が海中から飛び出し、ゲイブたちから100メートルほど離れた場所に着地した。

 着地するや否や、巨大な生物は頭部から緑色の液体を噴き出した。その液体は高い弧を描きつつゲイブたちに迫った。

 「避けろ!」大声を出して、ゲイブは馬を走らせた。

 ダルトンはジョンから手綱を受け取ることを諦め、素早く横っ飛びした。

 ジョンも急いで馬を走らせた。その際、左手の力がわずかに緩み、ダルトンに渡すつもりだった手綱を放してしまう。

 放たれた馬は、死角である真上に注意が向かず、佇み、緑色の液体を浴びた。苦痛に満ちた嘶きが響く。強烈な臭気が辺りを包む。緑色の液体は、馬の体を溶かしていた。緑色の煙を立ち上らせながら、骨までむき出しになった体は力なく倒れた。

 巨大な生物は地を這いながら坂を上り、ジョンたちとの距離を縮めた。

 「逃げるぞ!」ジョンが叫んだ。

 「駄目だ! あいつは馬よりも速い! さっきの液体もある! 逃げるのは却って危険だ!」ゲイブは馬の正面を巨大な生物に向けた。「三人で倒すしかない!」

 五秒も立たずに、巨大な生物はゲイブたちへの接近を果たし、体を真っすぐに伸ばして、三人を見下ろした。

 巨大な生物は体全体が青白く、体長は10メートルほどで、頭頂部が噴出口として裂けている以外は人間に似た頭部を持っていた。女性的な美しい顔をしていて、首から胴にかけても人間に似た作り。しかし肩から先に腕はなく、ひれが生えているのみ。腹部より下は蛇みたいで、その丸太のように太く長い体がしなやかに蠢いている。蛇みたいな体の尾に当たる部分にも、人間の胴と頭に似たものが付いている。こちらも腕はなく、ひれが生えているのみ。噴出口こそないが、顔は極めて醜く、尾として振られるたび、爛れた口からは悲鳴が漏れ出ていた。

 ゲイブが、白い光を点し続けていた左手を巨大な生物に向けた。その左手から突風が吹き出て、巨大な生物の体は激しく仰け反った。続けざまに、呪文を唱えたダルトンが攻撃する。伸び上がり絡まり合った草、その先端が鋭くとがり、巨大な生物の体に突き刺さる。

 悲痛な叫びを上げた巨大な生物は、突風が止んだ後、再び体を真っすぐに伸ばし、頭頂部を大きく開いて、緑色の液体を連続で幾つも噴き出した。それらはほぼ真上に飛んで、ゲイブたちの周囲に降り注いだ。

 緑色の液体は草花をも溶かし、その際に発生した緑色の煙が幾つも合わさって、あっという間に、巨大な生物の美しい顔しか見えなくなるほど緑色の煙は広がった。

 姿が完全に隠れ、しかしゲイブたちの呪文を唱える声ははっきりと聞こえ、巨大な生物は緑色の液体を噴き出し続けた。

 

 ゲイブたちが巨大な生物と戦闘を始めたころ、キャラック船は向かい風のなかをジグザグに進み、港へと近付いてきていた。

 「よし、ここまでで限界だ」

 そう言ってから、チャンドラーは船の停止に必要な細かい指示を出し、応じた使い魔たちは舵と帆を正確に操作した。

 キャラック船は、陸から吹いてくる風に対して船首を真っすぐに向け、帆も風の影響を受けづらいように調整し、海上で停止した。

 「錨を下ろしちゃえば、そんな面倒なことをしなくて済むのに」アリシアが言った。

 チャンドラーはキャラック船の停止を維持するため、なおも使い魔たちに指示を出し続けていた。

 「今日は大潮だ」指示の合間に、薄雲に透けた青い衛星を指差して、言った。「夜明けも近い。水深がどんどん深くなってきている。ただでさえ陸から距離があるんだ。錨など使わない」

 「理屈っぽい人って、嫌い」アリシアは伸びをした。「ねえ、もっと港に船を近付けてよ。あなたが召喚した気味の悪い化け物と旧約神書派が接触したはずなのに、この距離じゃ死人が出たかどうかさえ分からない」

 チャンドラーは丘のほうに目を向けた。

 「ひどい煙だ。あの化け物の仕業か? これでは近付いたところで何も見えまい」

 「残念。それじゃあ、ユゴーのほうを見る以外の選択はないわけね。あいつの戦いはねちねちしてそうで好みじゃないけれど、他に退屈しのぎになるものもないし」

 そう言ったアリシアの大きな瞳に映った港は、木造の建物に次々と火が燃え移ったあげく、眩いまでに赤々としていた。遠目に人の姿を見つけられる環境ではなく、引っ切り無しに聞こえてくる魔法の爆発音だけが、ユゴーが戦闘状態にあることを海上まで伝える唯一だった。

 「ユゴーの奴、いつの間にか陸に上がってたみたい。気が利かないんだから」

 アリシアは空を見上げ、甲板を歩き回り、程なくして、胡坐をかき、自身の長い金髪をいじり始めた。

 荒波の合間に顔を出した二頭のイルカが、港の惨状にびっくりして、キャラック船を避けつつ沖へと逃げた。

 「メディチ家の死体使い」徐に、アリシアは口を開いた。「この目で実際に見るまでは、力を誇示するために流された法螺だとばかり思ってた」

 甲板にあった死体の数が、二体減っていた。

 「普通、召喚魔法を使ったら代償に目玉やら何やらを失ってしまうでしょ。召喚した対象に命令を出しても同じ。それを死体で代替できるなんて、素敵ね、チャンドラー」

 立ち上がり、アリシアは丘のほうを見やった。

 「すごい、まだ大きくなる! 緑色の煙! あの化け物、張り切ってるね。これじゃあ、ユスターシュ・ドージェまで危険かも」

 「神はそう簡単にやられたりはしない」

 「それはユゴーみたいな狂信者に聞かせる建前でしょ」アリシアは蠱惑な眼差しでチャンドラーを見詰めた。「旧約神書派に連れまわされている時点で、転生したユスターシュ・ドージェが本来の力を発揮できない状態にあることが分かる。まだ赤ちゃんだから力が使えないだけなのか、転生魔法が不完全だったのか、何にせよ、今のユスターシュ・ドージェは普通の赤ちゃんと同等に無力だと推測するのが妥当。それなのに、あなたが化け物に下した命令は乱暴すぎた。赤ちゃん以外を全員殺せ、なんてさ」

 強風で、フードがずれた。

 チャンドラーは暗い瞳でアリシアをにらみ付けた。

 しばらく視線を交わらせた後、目を逸らしたのはチャンドラーのほうだった。

 「化け物への命令は考えが足りなかった。私の失敗だ」

 「嘘って、かわいいわね。男の嘘は、なお更」舌なめずり。「でも今は、本当のことを聞かせて」

 「本当も何もない」

 「かわいいのも度を過ぎるとね、チャンドラー、私も色々と考えちゃうよ」

 「その考えこそを聞かせてくれ」

 「二人で船上の舞踏としゃれこむのはどうかしら。どちらかが力尽きるまで続く死の舞踏会なんて、そそるでしょ」

 甲板を這う船虫を、アリシアは素足で踏みつぶした。

 チャンドラーは、大きく息を吐いた。

 「お前は何を知っている?」

 「あなたのお兄さん、レイモンド公の身のほど知らずな野望。転生したユスターシュ・ドージェによってローハ帝国の打倒が成された後、覇権を握るための根回しの数々。野望を果たせると確信する、その根拠となる取って置きの秘密まで」

 「情報源は?」

 「いつの間にか、私が質問される側になっちゃってる」嬉々とした笑い声をはさむ。「かわいいレイモンド公、ご本人よ。知らなかった? 私、あの人がどこをどうされると喜ぶのか、熟知しているの」

 「種なしの女狂いめ」

 チャンドラーは冷笑を浮かべた。

 船が少し傾いて、死体の懐からリンゴがこぼれ出た。

 「お兄さんと違って魅力的ね、チャンドラー」転がってきたリンゴを拾い、かじる。「怪しまれない程度に時間を稼いで、旧約神書派をユスターシュ・ドージェ共々逃がすつもりだったんでしょう。でも、ユゴーが港に向かってしまって、当初の目論見が外れた今は、ユスターシュ・ドージェを殺すつもりでいる。お兄さんの命令に背き、更には、神殺し。そんな大それたことをしでかそうとして、それでもあなたは命を懸けてまで目的を果たそうなどとは思っていない。さっき、私とユゴーが一触即発になったとき、あなたは私たちを制止した。目的を果たしたいのであれば、放っておいたほうが好都合だったのに。こんな狭い船上で、魔法の使い手同士が戦えば自分もただでは済まないと、あなたは判断したのよ。私、はっきり感じたわ。まるで若者のような、生きることへの、未来への執着を、その老い始めた体に」

 アリシアはリンゴを海に放り投げ、チャンドラーに艶めかしくすり寄った。

 「ユスターシュ・ドージェをそばに置きたいと考えている方がいる。殺してしまうよりも、その方に渡してしまったほうが、お兄さん、悔しがるわよ」チャンドラーの胸に口付けをする。「あなたがお咎めを受けないように、私が泥をかぶるから、ね」

 「私に色仕掛けは通用しないぞ」

 言うや否や、強く突き飛ばす。

 尻餅をついて、アリシアは舌を出した。

 「お前の真意が読めない。その方とやらに心酔しているわけではないだろう」

 「刺激と絶頂。私が望んでいるのは、いつだってそれだけ」

 アリシアはチャンドラーに爪先を向け、その足の指を淫らに動かした。

 港のほうで一際大きな爆発音がとどろいた。チャンドラーは音がしたほうに目を向け、それから、「いいだろう」と口にした。


 魔法によって発生させてきた幾つもの爆発、そのどれよりも大きな爆発をジェームズは放った。しかしそれさえも、ユゴーは易々と回避した。

 海上での最初の爆発で負傷した以降、ユゴーはかすり傷一つ負っていなかった。

 「何の考えもなしに同じ手を繰り返す。浅ましい希望にでもすがっているのか? 私が貴様の魔法を回避し続けているのは偶然だと、わずかでも考えているのか?」ユゴーは衣服についた塵を払った。「だとしたら、大馬鹿者だ」

 ユゴーとジェームズは10メートルほどの距離を取り、にらみ合っていた。炎に包まれた港にあって、青白い肌と血色のよい肌が対照的に照らし出される。ジェームズは未だ、無傷だった。

 ユゴーは呪文を唱え終えており、いつでも魔法を使える状態だったが、一向に魔法を使おうとせず、陰湿な声音で喋り続けた。

 「呪文を唱えるだけで任意の場所を爆発させる、その魔法自体は強力だが、悲しいかな、使い手の理解がまるで足りない。自分の魔法がどのようにして爆発を発生させているのか、考えたことがあるか? ないだろう。ないからこそ、貴様は私が爆発を回避し続ける理由に見当をつけることさえできずにいるのだ」空中に文字を書くようにして、右手を遊ばせるユゴー。「空気を圧縮して爆発を発生させる、それがお前の魔法だ。お前が魔法を放った瞬間、急激な気温の上昇があった。そうして発火点に達し、爆発。ここが密閉された空間ではない以上、私の推察は事実そのものだ・・・・・・私の氷の魔法は気温による影響を受けやすいのでね、気温の変化には敏感なのだよ。だからこそ、私には貴様の魔法の原理が手に取るように分かった」

 「何を言っているのか、さっぱり分からんね」

 「お前には理解できないと踏んだうえで講義をしてやったのだよ。無知への嫌味だ」嫌らしく笑い、砂を踏みにじる。「この星が太陽の周りを回っていると証明した人間が処刑され、その説と共に闇へ葬られる。ローハなどという虚偽の国を延命させるためだけの、抑圧だ。そんなローハの支配に隷属している人間たちには理解できない英知、科学の英知と共にある私が、魔法を使うだけの浅薄な貴様に負けることはない」

 「十分に喋ったな。もう満足だろ、頭でっかち」吐き捨てて、言葉を続ける。「俺の魔法を見切っているというのなら、構わんよ。お前の四方八方、広範囲で複数の爆発を同時に発生させればいいだけのことだからな。それならば、回避しようがないだろう」

 努めて余裕を見せ、出方をうかがう。ユゴーに魔法を使わせてから渾身の魔法を放とうとしたためだ。前言通りの魔法でユゴーを仕留める自信が、ジェームズにはあった。しかし、どんな魔法も通用しないのではないか? という疑心は自信を上回っていた。後出しを望んだ言動は慎重さによるものではなく、恐怖の現れだった。

 ジェームズの心理を見透かして、ユゴーは魔法を使わないまま悠々と歩き出し、ジェームズとの距離を詰めにかかった。

 後出しを断念したジェームズは、後退りつつ呪文を唱えた。それに合わせて、ユゴーも魔法を使う。

 ユゴーの周囲、複数か所で一斉に爆発が起こった。発生した爆発の数は二十を超えている。一人の人間を対象とするには過剰な攻撃。

 爆風で後方に吹き飛ばされたジェームズだったが、うまく受け身を取り、負傷は免れた。すぐに体勢を整え、ユゴーの生死を確認しようとする。

 直に、塵まみれの風が海に流れ、視界が開けた。そうして、ジェームズの顔は青ざめた。

 「その顔が見たかったぞ、旧約神書派よ!」

 ユゴーは満面の笑みを浮かべながら立っていた。先程の爆発による目立った外傷はない。

 ユゴーから少し離れたところは、爆発により空気中の成分さえ吹き飛び、澄んでいた。しかしユゴーの近くだけは、何もかもが青みがかって見える。

 「私の魔法なら空気を液体に変わるまで冷やすことができる」空気が細かな液体となって薄霞を作り、ユゴーの姿は神秘的に見えた。「液体は圧縮しづらい。圧縮できなければ熱も生まれない。よって、私の魔法の効果範囲内だけは爆発が発生しなかった。もちろん、効果範囲外からの爆風による痛手は多少なりとも被ったがね」

 ユゴーの魔法の効果範囲内はマイナス200度近くまで気温が下がっていた。魔法の効果範囲外にいるジェームズがはいた息さえ白ずむ。

 ユゴーは橙色の光に包まれていて、その光が周囲の冷気を完全に防ぎ、肉体や衣服を常温に保っていた。

 「逃げたほうがいいぞ。私に近付かれたら、命はない」

 ユゴーはジェームズに向かって歩き出した。ユゴーの歩に合わせ、魔法の効果範囲も移動し、極寒が広まっていく。

 自分の魔法がユゴーに通用しないことを実感し、撃破から足止めに目的を切り替え、ジェームズは再び後退りつつ呪文を唱えた。

 ユゴーの前方の距離が離れた場所を爆発させようとした魔法、しかしそれが発動することはなかった。

 「魔法は無限ではなく、有限。貴様は魔法の力を使い果たした」興奮が露で、声の抑揚は乱れていた。「打つ手なしだぞ。逃げる以外にはないぞ。ほら、逃げろ! 無様に逃げろ! 運が良ければ逃げおおせるかもしれないぞ!」

 ジェームズは腰のベルトに差していた剣を抜き、それをユゴーに向かって投げた。

 ユゴーまでの距離が残り4メートルを切ったところで、剣にひびが入った。過度な低温で急激に脆くなった鋼鉄製の刃は、ユゴーの右肩に当たり、砕け散った。

 ジェームズはユゴーに背を向け、ゲイブたちがいる丘から離れるように走り出した。ユゴーを少しでもゲイブたちから引き離す、最後のあがき。

 ユゴーの狂気じみた笑い声が炎に反響した。笑ったまま呪文を唱え、青い光の玉を発生させる。空中をふわふわと浮遊するその玉は、ユゴーがジェームズを指差すと、真っすぐに飛んでいった。

 ちょうど地面を踏んだジェームズの右足に、青い光の玉が命中する。途端に、ジェームズは上体を崩し、四つん這いになった。ジェームズは自身の右足を見やった。地面もろとも凍り付いた右足が目に入る。動かそうとしても、びくとも動かない。

 「命乞いをしろ」ジェームズにゆっくりと近付きながら、ユゴーは言った。「私の心に訴えるものがあったなら、見逃してやってもいい」

 寒さによるものなのか、恐怖によるものなのか、体が激しく震える。それでも、ジェームズは微笑み、「くたばれ、もやし野郎」と言い放った。

 ユゴーの笑みが、消えた。足早になり、ジェームズのそばに立つ。そうして、ジェームズの命は、体中の細胞が凍て付いて死滅し、絶たれた。

 「神の御心のままに、務めは果たされた」ユゴーの周囲にあった冷気が、消えた。「死した人間の卑しい魂は無限の闇に落ち、より一層、信仰の煌めきは引き立つだろう」

 殺人を反芻し、恍惚としたまま数十秒、佇む。それから、ジェームズの亡骸を見下ろし、嘲笑った。

 ユゴーは丘のほうに視線を移した。広範囲に渡る緑色の煙から突き出た巨大な生物の頭を凝視する。

 「召喚魔法か。神のおそばに汚れた存在を仕向けおって、不埒者どもめ」苦虫を噛んだようになり、そこからころっと表情を和らげる。「今すぐお迎えに上がります、我らが神」

 そばにある建物の屋根が崩れ落ちて、大量に降りかかった火の粉を払いもせず、ユゴーは呪文を唱え、走り出した。

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異世界 はんすけ @hansuke26

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