第3話 港
チャンプと馬を体力の限界まで走らせて、ようやく、小さな港が視野に入った。
港から300メートルほど離れた、港全体を見下ろせる丘に馬を停め、ジャック、ブロンテ、カフカの三人は素早く下馬した。
カフカに促され、大樹も下馬を試みた。運動不足な体は鉛のように重く、ブリキのおもちゃみたいに不器用で、三分以上かかった下馬は、尻から着地するという有様だった。
カフカは、尻をさすりながら涙目になっている大樹から目を移し、草をむしっているブロンテを見やり、それから、丘の傾斜付近に伏せているジャックに近付いた。
「港の状況、何か分かった?」
「望遠鏡もなしで、この距離と暗さでは、船が一隻泊っていること以外の情報なんて得られっこない」
波止場に泊まっているのは小型の帆船だった。キャラベル船だ。港だけでなく船上にも明かりが点っておらず、船と港の存在を証明するのは星の光だけ。船こそ丁寧な造りだが、港自体はとても粗末なもの。雑な石積みで凸凹だらけな波止場と、舗装のされていないぬかるんだ土の地面と、四つの木造の建物、それが港の全容だ。灯台すらも設置されていない。
「ゲイブは魔法の使い手として天才だ。だけど、いくら彼だってアベルさんたち追手の五人を一人で全滅させられるはずがない。腕の立つ仲間が数人いると思っておいたほうがいい」
「あるいは・・・・・・」ジャックの頬を汗がつたった。「ユスターシュ・ドージェがアベルさんたちをやったのか」
カフカは爪を噛み、それから、首を横に振り、手を口から離した。
「なんにしても、船が出港でもしないかぎりは監視を続けるだけにとどめよう。ロバート様に要請した援軍も直に到着するだろうし、時間が立てば立つほど俺たちが有利だ」
「海に逃げると俺たちに思わせておいて実は陸路を使って逃げている、って落ちじゃなければな」
「ジャック。チャンプの顔を見てみなよ。獲物が近くにいるのを感じ取ってる顔をしているだろ。こいつの鼻は簡単にはごまかせない。転生したユスターシュ・ドージェのへその緒を頼りにここまで走ってきたんだ。奴は、必ずあの港にいる」
チャンプは港を一心不乱に見詰めながら、鼻孔を全開まで広げ、歯を剥き出しにしていた。
「準備ができた」
ブロンテの声が聞こえて、カフカは振り向いた。
ブロンテは短刀を手にしていた。鋼鉄製の刃だ。彼の足元の露になった土、そこには直径10センチメートルほどの円が描かれていて、円の内側には幾何学模様が描かれている。
短刀を使って左手の甲を軽く切った。ブロンテの血が滴る。そうして、円の内側、計五か所に付着した血はぶくぶくと泡立った。血の泡は徐々に形を作っていき、程なく、人間に似た胴体、手、足、頭を持った真っ赤な生物が五匹、出来上がった。しわくちゃな悍ましい顔をしたそれらは体長8センチメートルほどで、甲高い声を出しながら二足歩行で跳躍した。
「大人しくしろ、使い魔ども」
ブロンテに凄まれ、使い魔と呼ばれた真っ赤な生物たちは言われた通りにした。
「お前たち二匹はあの船に乗っている人間を全て見つけて、その数を私に知らせろ。お前たち二匹はあの港にいる人間を全て見つけて、その数を私に知らせろ。お前はあの港にいる馬を全て見つけて、その数を私に知らせろ。誰にも見つからないようにしてやり遂げるんだ。いいな」
「見つけた、人間、いたずら、していい?」使い魔の一匹が言った。「指、切り落とす、耳、削ぎ落とす、していい?」
「駄目だ。私が命じたことだけをやれ」
使い魔たちは悪態をついた。
「これが仕事の報酬だ」
ブロンテは腰にくっつけていた布の巾着から豚の干し肉を取り出し、それを五等分して使い魔たちに見せた。
「前払い」
「後払いだ。さあ、行け」
再び悪態をつく使い魔たち。それを制するために、ブロンテは語気を強め、同じ言葉を繰り返した。
首を激しく横に振る、地団駄を踏む、などなど、使い魔たちは各々の方法で不満を表したが、ブロンテの意思が揺るがないと悟るや否や、丘の傾斜を下り出し、瞬く間に港の暗がりへ姿を消した。
「彼にも俺たちの言葉が通じればよかったのに」唖然として立ち尽くす大樹を見詰め、カフカは言った。「ずっと、怯えているように見える。状況の説明すらしてやれないのが心苦しい」
ブロンテが大樹に近付いた。小さな悲鳴が響いた。
短刀を差し出されて、大樹は両手を激しく振り、拒否を示した。
意図せず浮かんだ笑みが、年老いた顔を一層と老け込ませた。短刀を引っ込める。それから、カフカとジャックへ目を向けた。
「ユスターシュ・ドージェが移動を始めた場合のみ攻撃を行う。攻撃を行う際にも、ユスターシュ・ドージェをこの場所にとどめることが第一の目的だ。よって、攻撃対象の優先順位は、船、馬、ユスターシュ・ドージェの順だ。援軍が来ればゲイブたちの戦力がいか程であっても一網打尽にできる。敵の移動手段を奪うことに全力を注げ」
「里からの援軍要請がカラバロンク城へ届くまでの時間、カラバロンク城からこの場所までの移動に有する時間、それらを単純に足し算するならば、援軍は二時間後に到着するでしょう」
「援軍の部隊を編成するのに時間が掛かるだろ。二時間じゃ絶対に到着しないぜ、カフカ」
「カフカ。ジャックと港の監視を代われ。ジャック。こっちへ来い」
ジャックは丘の傾斜から離れた。
「この場所に塹壕を作れ」足元を指差しながら言う。「交戦になった場合、港から坂を上ってきた敵は塹壕で迎え撃つ」
ジャックはしゃがみ、地面に両手の平をつけて呪文を唱えた。地面に広がった茶色の光は、すぐに消えた。
「これで、いつでも塹壕を作れます」ジャックは立ち上がった。「一瞬でね」
ブロンテの口から深い息が漏れた。
「ジャック、カフカ、引き続き港の監視を頼む。私は、すまないが、少しだけ休ませてくれ」
そう言い終わる前から、崩れるように座り込んでいた。慣れない片目だけの視野が、心身の疲弊に拍車を掛けていた。
しばしの静寂が訪れた。穏やかな波の音色だけが聞こえる。そうして、十分が立った。その間もずっと、大樹は立ち尽くしていた。青い衛星を見詰めながらも、恐怖と混乱の余りに思考停止の状態に陥っていて、自分が地球外の場所にいるなどとは露とも考えず、唯、理解不能な現象と現状に対して無意味な文句をつぶやき続けていた。
暖かい夜だったが、湯冷めしたうえにズボン一丁の格好では少し肌寒く、くしゃみが出る。
ジャックと港の監視を交代したカフカが、脱いだ革のベストを大樹に差し出した。
躊躇の後、大樹は頭を少し下げ、受け取った革のベストを着た。
「カフカ」カフカは自身を指差して、言った。「カフカ。カフカ」
大樹は恐る恐る、カフカ、と口にした。
カフカは笑顔を作り、首を縦に振った。それから、大樹を指差す。
大樹、という小さな声が、はにかみと共にあった。
「ダイキ。珍しい名前だね」
強い風が吹き、ちぎれて飛んだ草花の切れ端が海上を舞った。
「ダイキ。こんなことに巻き込んでしまって、ごめんね」
その声の後には、甲高い声が続いた。
「馬、四頭、いる。あそこ。一番、大きい、建物、中、全部、いる」
いつの間にか戻ってきていた一匹の使い魔が、ブロンテのそばで飛び跳ねながら、波止場に隣接する造船所を指差していた。
ブロンテは豚の干し肉の一切れを投げて寄越した。自分の口よりも大きなそれを無理矢理ほお張り、ごくんと飲み込む使い魔。
食事を終えると、使い魔の体が泡に変わった。泡はどんどん小さくなっていき、僅かな血痕だけを残して消えた。
「カフカ、ジャック。使い魔の報告は聞こえたか?」
二人は、「聞こえました」と答えた。
少しして、二匹の使い魔が坂を上ってきた。大きく跳躍し、ブロンテのそばに着地する。
「船、人間、いない」口を揃えて言う。「一人も、いない」
豚の干し肉を二切れ投げる。二匹はそれを食し、先の一匹と同様に姿を消した。
一個の流れ星が夜空に美しい線を引いた。大樹だけがそれを見ていた。
残りの二匹の使い魔も、ブロンテのそばに戻ってきた。
「港、人間、二十八人、いる」丸い顔の使い魔が言った。「生きてる、奴、五人。他の、奴ら、みんな、死んでる」
「赤ん坊はいたか?」
「一人、いる」四角い顔の使い魔が、造船所を指差した。「生きてる、四人と、一緒、あの、建物、中、いる」
ジャックがつばを飲み込んだ。カフカは冷や汗をぬぐった。
「お前たちにはもう一つ仕事をしてもらう。あの建物を近くで見張り、赤ん坊が外に出たら急いで私に報告しろ」
「ずるいぞ! なんで、俺たち、だけ、仕事、多い!」
宙を舞った豚の干し肉を捕えながら、使い魔たちは文句を付けた。
「報酬にチーズを付けたそう」巾着からチーズを取り出す。「牛の乳汁で作ったものだ。うまいぞ」
「それだけ、じゃ、駄目! そこの、綺麗、男!」丸い顔の使い魔がカフカを指差した。「そいつの、前歯、一本、ずつ、寄越せ!」
口を開きかけたカフカを制して、ブロンテは素早く、「それは駄目だ」と言った。それから、「私の歯をやろう。前歯だけと言わず、全ての歯を」と続けた。
使い魔たちは少し迷ってから、「それで、いい」と同時に言った。
「では、行け。今回も後払いだ」
言われてすぐ、使い魔たちは造船所に向かって坂を下っていった。
「すみません。ブロンテ老師」
「気にすることはない。私の歯は全て義歯だ」
カフカは苦笑いを浮かべ、「それで彼等は納得するんですか?」と口にした。
「味の違いが分かる連中ではないさ」綻びて、すぐさま表情を引き締め直す。「ジャック、カフカ。使い魔が戻ることがない限りは港全体の監視を続けてくれ」
「ブロンテ老師」ジャックが言った。「使い魔が言っていた死んでいる奴らというのは、あの港を根城にしていたならず者のことでしょうか?」
「そう仮定するしかない」
「では、生きている五人がユスターシュ・ドージェたちである、というのも仮定ですよね」
「ゲイブたちの顔を判別できない使い魔に、港にいる連中が何者なのかを特定させることまでは望めない。よって、現在の状況、現在持っている情報だけで私たちは判断をするしかないのだ。チャンプの様子、死体だらけの港、ならず者の縄張りに似つかわしくない赤ん坊、それらを総合して港にいるのがユスターシュ・ドージェたちだと考えるのは非合理ではないだろう」
「俺は、生きている五人というのが何者なのか、正確に知るべきだと思います」ジャックは語気を強めた。「そのためにも、俺があの建物に忍び込んできます。俺たちにとって最悪なのは、港にいるという赤ん坊がユスターシュ・ドージェではなかった場合でしょう。ユスターシュ・ドージェの囮に釘付けとなっている間に、本物が遠くへ逃げてしまうなら、間抜けもいいところだ」
「自分たちの追跡に使われるであろう物品を全て焼却していたゲイブが、息子のへその緒だけは処分していなかった。へその緒のにおいで追跡されるなどとは夢にも思っていないのだ。だから奴らは悠長に、あの港にとどまっている。馬を休ませるためか、船を動かすためか、あるいは波止場に泊まっている船とは別の船を待っているのか。なんにせよ、ジャック、お前が奴らに見つかるようなことがあれば、この我々にとって好ましい膠着状態は終わってしまう。お前の提案は受け入れられない」
「ブロンテ老師。俺は、ジャックの提案を支持します」カフカはブロンテのそばにしゃがんだ。「港にいる五人、奴らの状態は不気味です。全員が同じ場所に籠って、馬まで建物の中に入れて、明かりも点けず、音も立てず、何の動きも見せない。追手が来ないだろうと考えている人間たちにしては神経質だ。俺には、まるで籠城に見える」
「籠城をするなら援軍が有ることが前提だ。そのために時間を稼ぐ」
「あるいは、別動隊を敵の背後に回すために時間を稼ぐ」つぶやいて、ブロンテの右目は大きく開かれた。「カフカ、後方を警戒しろ」
そう言い終わったのと同時に、チャンプが吠えた。その吠声が向かう先を、カフカたちは一斉に見やった。鋭利な刃を具現した風が、海の反対方向から凄まじい速さで迫ってきている。風は、ブロンテの首の右側面を切り裂き、そのまま海上まで吹き抜けて、消えた。
噴き出した鮮血がカフカの髪を赤く染めた。ブロンテは俯せに倒れた。
カフカとジャックは立ち上がり、剣を抜いた。平たい両刃が月明りを反射する。
今度は巨大なつむじ風が草原を切り裂きながら迫ってくる。つむじ風の後方には、駆けてくる騎馬が一騎。馬に乗っている男は栗色の長髪をなびかせていた。
「ゲイブだ!」
カフカが叫んだ刹那、近くの地面が大きな音と共に陥没した。一瞬で塹壕が出来上がる。塹壕の深さは140センチメートルほどで、数人の成人男性が無理なく入れる広さと長さを有していた。
「飛び込め!」ジャックが叫んだ。
カフカたちの馬は散り散りに逃げ出し、チャンプは塹壕に飛び込んだ。
呆然としてぴくりとも動かない大樹に体当たりをぶちかますカフカ。大樹は前方に吹っ飛び、塹壕へ転がり落ちた。続いて、カフカ、ジャックも塹壕に飛び込んだ。
カフカたちの頭上をつむじ風が通過する。舞い上がった土が粉々になって弾け飛ぶ。
大樹の悲鳴は耳をつんざく風音にかき消された。
つむじ風もまた、海上まで吹き抜けて、消えた。
ジャックは慎重に立ち上がった。草原を見やる。ゲイブの騎馬は塹壕から200メートルほどの距離まで近付いてきていた。ジャックが呪文を唱える。そうして、右手の人差し指に点った茶色の光を50メートル先の地面に飛ばした。
茶色の光を吸い込んだ土は激しく噴き上がり、巨大な蛇の形を作った。その開かれた口はゲイブを馬ごと丸呑みにできるほど大きく、真っすぐに突っ込んでくる獲物を待ち構えた。
カフカは呪文を唱えながら塹壕を出て、ブロンテのそばにしゃがみ込んだ。
ブロンテは俯せに倒れたままだった。先ほどのつむじ風によって、彼の後頭部や背中には無数の切り傷が出来ている。しかし最も深い傷は、最初に切り裂かれた首の右側面にあるものだ。
呪文を唱え終わると、カフカの左手に乳白色の光が点った。その手で、ブロンテの首の右側面に触れようとする。
「治療はいらない」ブロンテは微動だにせず、カフカにだけ聞こえる大きさの声で言った。「私は死んでいると敵に思わせろ」
短い躊躇の後、カフカは再び呪文を唱えた。左手に点る乳白色の光が灰色に変わる。そうして、小声で呪文を唱え始めたブロンテから離れ、ゲイブをにらんだ。
ジャックが塹壕の中で呪文を唱えた。握りしめていた土が見る見るうちに槍の形へと変わっていく。
「カフカ! ブロンテ老師は無事か!?」
「駄目だ! ブロンテ老師は、もう、亡くなっている!」殊更大きな声で、カフカは叫んだ。
馬の速度を緩めながら呪文を唱えていたゲイブが、瞬間、眉を落とした。
「父親同然だろ!」ジャックの目は血走っていた。「そんな人をあっさり殺せてしまうのか、ゲイブ!」
土で出来た蛇が、眼前に迫ったゲイブを丸呑みにしようと襲い掛かる。ゲイブは右手を大きく横に振った。ブロンテの首を切り裂いたものよりも大きな、鋭利な刃を具現した風が、前方に向かっていく。蛇は、風に頭と胴を切り離され、ぼろぼろと崩れ、ただの土に戻った。
ジャックは土で出来た槍を投げた。低い弧を描き、切っ先が正確にゲイブの胸部へ迫る。ゲイブは馬にまたがったまま上体を大きく横にずらした。槍は、ゲイブの右肩を僅かに切り裂き、勢いそのまま地面に突き刺さって、崩れた。
ゲイブは、ジャックを見下ろせるところで馬を止めた。
ゲイブの白い肌を、星明りが鮮やかに照らしだす。彼の豊かな頭髪から、蛙の形をした生物が顔を出した。
「私の使い魔が教えてくれた。君たちが港に向かってきている、ってね。この子はアベルさんたちのご遺体のそばに潜ませていたんだよ」頭髪と一緒に使い魔をなでながら、ゲイブは言った。「犬の鼻に引っ掛からないよう、十分に距離を取って君たちの後方に回り込んだ。港を一望できて、なお且つ港から死角になる場所はこの丘しかない。君たちが私たちを正確に追跡できたことから、直に援軍も来るだろうと推測できた。だから、港に動きがない限り君たちがこの場所に釘付けになることも推測できた。これだけ君たちの現在地を把握できていれば、距離の取り方を間違うことなんてない」
「いつもより随分と饒舌じゃないか」ゲイブを見上げるジャックの顔は、ひどく歪んでいた。「調子に乗るなよ、ゲイブ」
「調子になんて乗ってないよ、ジャック。君と、これで永遠にお別れなんだと思ったら、急におしゃべりしたくなっただけ」ジャックから目を逸らすようにして、塹壕の中で四つん這いになっている大樹を見やる。「彼、誰なの?」
「知らないね。ただのおっさんだろ」
大樹は塹壕に転がり落ちた際に背中を痛めていた。打撲だった。少しでも体を動かそうとすると痛みが走るので、すぐそばで吠え続けているチャンプに恐怖を覚えながらも、痛みの和らぐ四つん這いの体勢を維持し、涙目になりながら喘いでいた。
「ただのおっさん・・・・・・そんなわけないでしょ」
「それじゃあ、毛深いおばさんなのかもしれないな。確かめてみろよ」
「そういう意地悪な物言い、久しぶりだね。子供のころを思い出しちゃうよ」
「時間を稼がれてるぞ! ジャック!」カフカが港のほうを見やりながら叫んだ。「このままじゃ挟み撃ちだ!」
カフカたちに向かって、二人の男が坂を上ってきていた。大柄な男と小柄な男だ。二人とも真っ黒なローブをまとっている。大柄な男は大剣を片手で持ち、小柄な男は短剣を持っていた。カフカたちとの距離はもう100メートルもない。
ジャックとゲイブが呪文を唱え始める、と同時に、ブロンテが素早く立ち上がり、ゲイブの馬目掛けて短刀を投げた。刃が馬の額に突き刺さる。
馬が倒れる直前に宙へと身を投げたゲイブは、着地の際に体を強打するもすぐさま体勢を整え、ブロンテを見据えながら呪文の続きを唱えた。
倒れた馬は塹壕に滑り落ちた。チャンプは横に飛びのき、馬の下敷きになるのを避けた。
大樹は恐る恐る横を向いた。絶命寸前の馬と目が合う。
背中の痛みさえ失念して、大樹は絶叫と共に立ち上がった。
ブロンテは、短刀を投げた後すぐに身を翻していた。そうして、波止場に泊まっている船に向けた右手から飛び出したのは、巨大な火の玉だった。
放った火の玉の行方を追わず、再び身を翻し、塹壕を挟んでゲイブと目を合わせる。
ほんの一瞬、場に蘇った静寂。それは、火の玉が船に直撃した轟音で潰えた。
弾けた火の玉は燃え広がり、瞬く間に船を火だるまにした。
「ジャック! カフカ!」炎と煙を背に、ブロンテは叫んだ。「第一の目的を果たせ!」
塹壕から出たジャックは、造船所に向かって走り出した。四頭の馬を殺すため。あわよくば、赤ん坊を殺すため。
カフカは、ブロンテに駆け寄った。ブロンテを止血するために。
「カフカ! 私に構うな! ジャックを援護しろ!」
怒鳴られても、すぐには言う通りにできなかった。
数秒ためらって、ようやくカフカが造船所に向かって走り出したとき、既にジャックは坂を上ってきていた二人の男と戦闘を開始していた。
大樹が、塹壕から這い出した。そのまま港の反対方向へと走り出す。叫びながら、涙を流しながら、失禁しながら、彼は走った。
大樹に微塵も注意を払わないゲイブの青い瞳、そこに映るブロンテの口が、動いた。
「異世界の者よ! ゲイブを殺せ!」
当てどなく逃げ続けようとしていた大樹が、ブロンテの声が聞こえた途端、ぴたりと足を止めた。そうして、振り返り、ゲイブに向かって走り出す。自分の意思とは無関係に体が動き、恐怖と混乱が頂点に達した大樹は、絶叫の果てに消沈して、力なく笑った。
大樹に命令を出した直後、ブロンテの右耳は赤色の煙に包まれた。すぐに消えたその煙と一緒に、右耳も消えてなくなる。激痛があった。それでも、ブロンテは顔色一つ変えず、弱みを全く見せなかった。
ブロンテに攻撃を仕掛けようとしたゲイブだったが、思い直し、大樹のほうへ向き直った。ゲイブと大樹、二人の距離はもう3メートルもない。
ゲイブに対して、大樹が体当たりを仕掛けた。ゲイブは、大きく息を吐いた。その息は突風となって、大樹を吹き飛ばした。
10メートル近く吹き飛ばされ、着地の際に後頭部を打った大樹は、脳震盪によって気を失った。
ブロンテは、肩を落とし、「すまない。異世界の者よ」とつぶやいた。それから、気力を振り絞り、ゲイブをにらんだ。
ゲイブはもう、ブロンテを真っすぐに見詰めていた。
「あなたほどの人でも誤りを犯してしまう。召喚魔法とは本当にままならない」消え入りそうな声だった。「もう、その出血では、長くないね」
首からの出血で、ブロンテの足下は真っ赤に染まっていた。
「ゲイブ」ブロンテは微笑んだ。「死が目前にあるのは私にとって好都合だ。次の魔法に、迷わず全ての力を注ぎこめるのだから」
ブロンテが呪文を唱えた。ゲイブも呪文を唱えた。
ブロンテは、激しく燃え上がった両手をゲイブに向けた。その手の平から噴き出した火炎は踊り狂い、ゲイブに迫った。
ゲイブは、両手を高く振り上げた。ゲイブの体を中心として、巨大なつむじ風が発生する。
つむじ風は、火炎を夜空に舞い上がらせた。
「綺麗だ」炎の螺旋を見上げ、ブロンテはつぶやいた。「綺麗だな。ゲイブ」
十秒ほどで、火炎が止み、つむじ風も止んで、ブロンテは倒れた。
「あの人の生死を確認してきて」
命じられた使い魔は、ゲイブの頭から跳躍し、ブロンテに近付いていった。首の左側面に体をくっつけて脈を計る。十秒ほどそうしてから、使い魔はゲイブのそばに戻り、肩へ飛び乗って、「死んでる」と擦れた声を出した。
天を仰いだゲイブに、塹壕から這い出してきたチャンプが飛び掛かった。咄嗟に、右腕で防御する。その前腕に、チャンプは噛み付いた。ゲイブは苦痛の声を漏らしながら、腰に差していた短刀を抜いた。チャンプの頭を刺し貫くべく短刀を振り上げる。しかし、短刀が振り下ろされることはなかった。
チャンプを見詰めながら、ゲイブは短刀を地面に落とした。そうして、呪文を唱え、穏やかな光が点った左手をチャンプの額にそっと置いた。
徐々に、チャンプの瞼が閉じられていく。比例して、噛み付く力も弱まっていく。
二十秒ほどで、チャンプはゲイブの腕から口を放し、ばたりと地面に横たわった。
チャンプは寝息を立てていた。
ゲイブの右の前腕は紫色に腫れ上がっていた。骨折はしていないが、筋を大きく損傷している。少し動かすだけで激痛が走り、円滑な動きはもう望めない。
ゲイブは左手で短刀を拾い上げ、塹壕を飛び越え、港に向かって走った。すぐに、丘と港の間で戦闘を繰り広げている四人を見下ろせる。ちょうどジャックが魔法を使うところだった。
ジャックの魔法によって地面から噴き出した大量の土は、空中で鋭い礫に変わり、二人の男へと降り懸かった。
大柄な男が素早く呪文を唱えた。すると、大柄な男の足下に生えている草が急激に伸び上がり、絡まり合い、幅は1メートル以上、高さは2メートル以上の盾を形作り、降り懸かる礫を全て防いだ。
小柄な男は身軽な動作で横っ飛びして、礫を回避した。その着地際を狙って、カフカが剣を投げる。小柄な男は頭を逸らして剣を避けようとしたが、完璧には避けきれず、切っ先でこめかみを少し切った。間髪を容れず、カフカは灰色の光を点している左手を振った。そうして放たれた灰色の光は、高速で飛んでいき、小柄な男のこめかみの傷に命中した。途端に、小柄な男は仰向けに倒れ、のたうった。こめかみの傷がどんどん広がっていく。傷はあっという間に顔全体を引き裂いて、のたうっていた体はぴくりとも動かなくなった。
大柄な男が怒声を発し、大剣を振り上げながらカフカに向かって走り出した。同時に、ゲイブがカフカの背中目掛けて短刀を投げる。
右の肩甲骨付近に短刀が深々と突き刺さった。前のめりに倒れ、坂を転がり落ちていく。
「カフカ!」
転がり落ちていくカフカを目で追っていた大柄な男は、ジャックの叫び声に反応して視線を動かし、呪文を唱えた。
足下から伸び上がってきた草が首に巻き付き、強く締め付けられ、ジャックは詰まった息を漏らした。
「窒息じゃ生温い! 首をへし折ってやる!」大柄な男が叫んだ。
ジャックの首がみしみしと音を立てる。伸び上がった草は鋼鉄のように硬くなっており、剣を使ってさえ切ることはかなわなかった。
「彼を殺す必要はないよ、ダルトン」ゲイブが大柄な男に向かって言った。「見なよ。味方の船が来た。もう確実に逃げ切れる。これ以上、人を殺すことはない」
ゲイブが指差した先には、大型の帆船が一隻あった。それはキャラック船だった。
ダルトンと呼ばれた男は海を見やり、それから、息絶えている小柄な男を見詰め、涙声を上げた。
「兄貴を殺した奴らを生かしてはおけない!」
意識が遠ざかり、ジャックは剣を地面に落とした。
「お願いだ、ダルトン。魔法を解いて」
ゲイブは両膝をつき、必死の形相でこん願した。
ダルトンはこぶしを強く握りしめ、全身を激しく震わせた。
「彼を、殺さないで」
ダルトンの大きな口から深い息が漏れ、その緑色の瞳に同情の色が差した後、ジャックの首に巻き付いていた草は解けた。解けた草は、地面に吸い込まれるように縮んでいった。
ジャックは仰向けに倒れ、喘いだ。
少しして、呼吸が落ち着き、呪文を唱えようとする。しかし、既に呪文を唱え終えていたダルトンが先んじて魔法を使い、倒れたままの頭、その真横に生えている草が伸び、猿轡となってジャックの声を封じた。
上体を全く起こせないほど草で出来た猿轡は頑丈で、根までも強度を増していた。たった一か所の拘束で、ジャックは無力となった。
「もう一人は、殺す。ゲイブ、これだけは止めても無駄だ」
ダルトンは坂を下っていき、俯せに倒れているカフカに近付いた。
「ぴくりとも動かない。もう、死んでいるよ」
「死んだふりかもしれない」
大剣の切っ先がカフカの首に向けられて、ゲイブは俯いた。
ジャックは手や足を激しく動かしながら拘束を解こうともがき続けた。声にならない声が木霊する。
口から溢れ出た血、それをぬぐってやろうと伸ばされた手を、ジャックはつかもうとした。ゲイブはつかまれる寸前のところで手を引っ込めた。
二人の目が、合った。激しい憎悪を宿したジャックの目を、ゲイブはわずかな間しか直視できなかった。そうして逸らした目に映ったキャラック船は、にじんでいた。
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