　曇天の夜空の下、大樹は全裸で立っていた。原子から再構築された大樹の心身は、地球に居たころと全く同じ状態だった。

　大樹の開かれた両目には、火の明りと人間の姿が映っていた。

　「俺たちと同じ、人間の姿をしている。意思の疎通を計れるかもしれない」

　松明を持った金髪の若い男が、大樹に近付きながら言った。男は身長165センチメートルくらいで、亜麻布で作られたシャツとズボンを身に付けており、シャツの上には革のベストを装着し、革のブーツも履いていた。腰にはベルトが巻かれていて、そこには鞘に収まった剣が引っ掛けられている。

　「意思の疎通なんて必要ないだろ、カフカ。そいつは強制的に動かせばいいんだ」

　大樹から距離を取って立っている赤い髪の男が言った。身長180センチメートルほどの彼も若く、松明を持ち、腰元に剣を装備し、カフカと呼ばれた男と同じような身なりをしていた。

　「それではブロンテ老師の負担が大きすぎるよ、ジャック」カフカは尚も大樹に近付いた。「こいつを召喚するだけで、ブロンテ老師は左目を失ったんだ。命令を出せば、また何かを失うことになる」

　「甘いことを言うな！　時間がないんだよ！」ジャックと呼ばれた男が叫んだ。「犠牲は止むを得ない！」

　訳も分からぬまま、大樹は視線を落とし、ようやく自分が全裸であることを認識して、陰部を両手で隠した。

　強張っていたカフカの表情が少しだけほぐれた。

　「言葉は、ラハン語は分かりますか？」

　カフカたちの言語は地球上に存在しないもので、大樹は理解できなかった。

　不明点を問う日本語を大樹が発して、それがカフカたちに通じることもなかった。

　カフカはベルトとズボンの間に挟んでいた布切れを抜き取り、それを大樹に差し出した。湯に濡れている体をぬぐえという意思表示だった。

　大樹は首を激しく横に振り、布切れを受け取らなかった。

　「もういいだろ、カフカ」地球に生息する馬と同種の生物にまたがりながら、ジャックが言った。「馬もチャンプも十分に休ませた。早くユスターシュ・ドージェを追いかけるぞ」

　馬の足元で伏せているブラジリアン・グレイハウンドに似た犬、チャンプがうなった。

　チャンプの頭を優しくなで、横になっている状態からゆっくりと起き上がったスキンヘッドの老人も、ジャックと同様に乗馬を済ませた。

　「もう少し待ってくれ。彼に服を着せてやりたい」

　「ふざけてるのか、カフカ！」

　ジャックの怒鳴り声を無視して、カフカは少し歩き、膝をついて、松明の柄を地面に刺してから、倒れている男にそっと手を触れた。

　「すみません、アベルさん。服をお借りします」

　カフカはアベルと呼んだ男の服を脱がせ始めた。アベルの顔が大きく傾いて、大樹のほうを向く。

　アベルの大きく見開かれた左目と目が合って、大樹は悲鳴を上げた。アベルの顔は右半分が粉々に吹き飛び、左半分は血まみれで、僅かに原型をとどめた口は絶叫の形のまま固まっていた。

　混乱により鈍感になっていた大樹の嗅覚が、視覚の強烈な刺激で正常な働きを取り戻した。死のにおいが鼻を犯す。強烈な臭気に大樹は嘔吐した。

　アベルを含めて五人の死体が大樹たちの近くにあった。アベルが最も損傷の少ない死体だった。馬の死体も五頭ある。

　カフカはアベルから脱がしたシャツとズボンと靴を大樹の足元に置いた。

　カフカの意図を大樹は理解した。しかし、死体が身に付けていた物を着用することには抵抗があり、躊躇する。

　「もう待てないぞ！」

　ジャックの叫び声の後に馬のいななきが続いた。

　カフカはズボンを拾い上げ、それを大樹の胸に押し付けてから、笑顔を作り、ゆっくりと首を縦に振った。

　大樹は恐る恐るズボンをつまんだ。つばを飲み込み、意を決してズボンをはく。

　ズボンのサイズが合わず、お腹周りはきつかった。亜麻自体の品質が悪いのに加え、製造工程における茎の粉砕が甘く、肌触りもよくない。なによりも、両の太ももがぬっとりとした血でぬれることが耐え難く、不快だった。この上、シャツと靴まで身に付ける気にはなれず、大樹は丈の短いズボン一丁の格好に落ち着いた。

　「ブロンテ老師。その太ったおっさんに走って付いて来るよう命令を出してください」

　ジャックが言った。スキンヘッドの老人に松明を向けながら。

　ブロンテの緩く閉じられた左目蓋から覗く真っ黒な空洞が、照らされた。

　「彼は俺の馬に乗せていくよ」カフカが乗馬しながら言った。「これ以上の犠牲を払うのは、いざとなってからでいい」

　「後ろから噛み付かれても知らないぞ！」

　カフカは馬上から大樹に向かって手を伸ばした。大樹は両手を激しく振ってカフカの手を拒んだ。

　「そんなことまで御丁寧にやってるなよ！」

　怒鳴ってすぐ、ジャックは呪文を唱え始めた。彼等が今まで使っていた言語とは異なる、言語と呼んでよいのかさえ定かではないほど不明瞭な言葉、それでいて強く耳に残る不思議な呪文だった。

　三秒ほどで呪文を唱え終わると、ジャックの指先から緑色の光が飛び出した。その光は大樹の足もとに吸い込まれた。刹那に、光を吸い込んだ土が間欠泉のように噴き上がる。大きな土の柱が出来上がり、その最も高いところが変形し、巨大な人間の手を形作る。

　大樹は絶叫した。逃げ出そうとするも、巨大な土の手に上半身を鷲づかみにされてしまう。そうして持ち上げられた大樹は脚をばたばたと動かしながら叫び続けた。

　巨大な土の手は、脚の開いた瞬間を見計らい、カフカの後ろ、馬の腰に大樹をまたがらせた。

　大樹を放すと、巨大な土の手はぼろぼろに崩れた。

　人生で初めての馬上に慌てふためき、大樹はカフカの腰に両腕を回し、必死にしがみついた。

　「チャンプ、行け！」

　チャンプが大きく吠えて走り出す。それに続いて、ジャックの馬とブロンテの馬も走り出した。

　「そのまま、つかまっていてください！　って言っても、通じないか」

　カフカは両脚で馬の横っ腹に圧力を加えた。馬が走り出す。

　時速30キロほどでカフカたちの馬は走った。大樹は恐怖の余り時速100キロ以上で走っている錯覚に陥った。そうして益々強くしがみつく。

　ニ十分ほど走り続けた。道はどこまでも草原。雲の隙間から月にそっくりな真ん丸がのぞく。それは青色をした衛星だった。

　風が強まり、雲がどんどん流され、やがて夜空は澄んだ。無数の星が世界を照らし出す。草原の所々で、ヒナゲシやシロツメクサなどが咲き誇っている。哺乳類や爬虫類、鳥類や昆虫類も植物と同様に、地球上に生息しているものと同種か類似するものだ。キツネがウサギを追いかける様子が、カフカの青い瞳に映る。

　「かわいそうに」

　そうカフカがささやいたころには、大樹も馬での移動に慣れ始めていた。しかしその慣れによって、今まで意識していなかった下半身の痛みがはっきりとしたものになってくる。鞍にまたがるカフカたちとは違い、馬の体に直にまたがる大樹は尻や睾丸に絶えず強い刺激を受けていたのだ。

　痛みに耐え兼ねて、悪態をつき、わめき出す。状況を理解できない不安も相まって、罵詈雑言は激しかった。

　「なにか騒いでますね、あの太ったおっさん」ジャックは自分の馬をブロンテの馬に寄せた。「あんなのが本当に戦力になるんでしょうか？」

　「私は間違いなく、最も邪悪な世界に住まう者を召喚した」

　「どう見ても普通の人間ですよ」

　「ジャック、お前も里で見たはずだ。ゲイブの腕に抱かれた、転生したユスターシュ・ドージェの姿を。あれの見た目も普通の赤ん坊だった。姿形と力は必ずしも比例しない」

　ジャックは上体を反らし、困り切っているカフカとわめき続ける大樹を見やった。それから、「焼きが回ってないことを祈るしかないのか」とつぶやいた。

　更に十分ほど走り続ける。そうして、チャンプと馬の疲労が目立ち始めたころ、潮のにおいが漂いだした。わめき疲れ、痛覚も鈍り、すっかり大人しくなった大樹は、内陸育ちの性で鼻をひくひくさせた。

　地平線はもう、水平線に変わっていた。

　「ゲイブの野郎は海に逃げるつもりなんでしょうか？」

　「このまま真っすぐ進めば小さな港に辿り着く」ジャックたちと横並びになりながら、カフカが言った。「ゲイブは海に逃げると断定していい」

　「村すら見当たらない、こんな辺ぴなところに港なんかあるのか？」

　「小さな波止場の周りに、ならず者たちが簡易な住まいを連ねた場所がある。非合法の薬物なんかを密輸入するために使われている」

　上擦った声を出すカフカを、ブロンテの濁った右目がにらんだ。

　「なぜお前がそんなことを知っている？」

　ブロンテと目が合って、目を逸らし、しかしすぐにまた目を合わせて、カフカは口を開いた。

　「二年ほど前から、俺は何度も里を抜け出していました。さっきの港の話は、一か月前にカムラック村で酔った行商人から聞いたのです」

　「今回のような非常事態でない限り、里の外に出ることは禁忌とされている・・・・・・その沙汰は、生きて帰ってからたっぷりと。覚悟しておけ、カフカ」

　皺だらけの厳めしい顔が愉快そうにほぐれて、それを見たカフカは深く頭を下げた。

　「カフカの言う港で戦闘になる可能性は高い」ブロンテは前方を見据えた。「確認しておくぞ、カフカ、ジャック。ゲイブは取り逃がしても構わん。だが、ユスターシュ・ドージェだけは絶対に息の根を止めろ」

　カフカは、躊躇を見せた後に頷いた。ジャックは、険しい表情で水平線だけを見続けた。

　「二人とも、松明の火を私に向けろ」

　二人は言う通りにした。松明の火にブロンテが右の手の平を向ける。二秒ほど呪文を唱えると、火が手の平に吸い込まれ始めた。あっという間に、彼等を照らすものは星明かり以外にはなくなった。

　ブロンテが右手を握りしめると、火の粉が飛び散った。草原を舞った火の粉がかき消えるのと同時に、若い二人を鼓舞しようと声を発する。その声に重なるようにして、大樹があえぎ声を出した。それで格好がつかなくなり、ブロンテは軽く咳払いをした。

　ジャックはため息をつき、カフカは微笑んだ。

　大樹があえぎ声を出した理由、それは彼が身に付けたズボンの中でもぞもぞと動きだしたものがあったからだった。股間の辺りから動き出し、どんどん上に向かって移動して、ぶよぶよの腹とズボンの間から顔を出す、蛙の形をした紙のようにぺらぺらな真っ赤な生物。カフカに上半身を密着してしがみついている大樹は、下半身のむずがゆさを認識しつつも腹部に目を向けられず、その生物の存在に気付けなかった。

　体長5センチメートルほどしかない蛙の形をした生物は、ズボンから抜け出し、馬上から飛び降りた。風にあおられるなかをムササビのように滑空して、着地する。そうして、草に身を隠し、誰にも気付かれぬまま馬の何倍もの速度で港へ向かって走り出した。