異世界

はんすけ

第1話 長いお別れ

 「ばばあ! アイチューンズカードを買ってこい!」

 息子の部屋から怒鳴り声が聞こえてきて、母親の小さな体はびくっと震えた。すぐさま近所のコンビニへ走っていき、買い物を済ませ、家に戻る。

 二階へ上がり、息子の部屋の前にアイチューンズカードを置く。それから、ドアをノックして、「ここに置いておくわね」と言った。

 一階へ降りていく母親の足音は、弱々しかった。

 五十七歳になる体は、若さの喪失を日々、母親に自覚させていた。

 「少し走っただけで、こんなに疲れちゃうなんてね」

 節々の痛む体を椅子に預け、汗を拭う。テレビを付けて、ぼんやりして、少ししたらもう、空虚な目はテレビからキッチンへと向けられていた。

 「大樹が起きたんだから、あの子のご飯を作らなくちゃ」

 よっこいしょ、と腰を上げたのと同時に、天井が大きな音を立てた。

 「ばばあ! 五千円のやつじゃないって何度も言ってるだろうが! 俺がアイチューンズカードを買ってこいって言ったら、一万円のやつを買ってくるんだろうがよ! 馬鹿か!」

 荒んだ大声以上に執拗な地団駄でとどろく鈍い音のほうが、母親にとって強い恐怖だった。

 母親は再びコンビニへと走った。湿った瞳に橙色の光が差して、瞬く。蝉がけたたましく鳴いていた。

 太陽が、沈んだ。蝉は鳴り止まない。当たり前の、熱帯夜。

 帰宅ラッシュの満員電車を降りる際、若い男に押されてプラットホームに手の平を着いた父親は、「すみません」と口にして、自らの弱気にうんざりした。

 『今日こそは、大樹ときちんと話をするんだ』

 そう決意したが、自宅に近付くほど足取りは重くなった。

 近所の公園に寄り道をして、ベンチに座り、園内を見渡す。

 「あのブランコ、大樹のお気に入りだったな」

 ブランコだけでなく、滑り台や砂場にも息子との思い出が詰まっていた。しばらくの間、父親はその場から動けなかった。

 ようやく帰宅した時には、もう九時を回っていた。

 「晩御飯は食べてきたの?」

 「いや、食べてきてない」

 「それじゃあ、シチューを温めますね」

 「飯の前に、大樹と話す」

 母親は、俯いた。

 「やめましょう。そっとしておいてあげましょう」

 「そうやって三年も過ぎた。あの子はもう二十八歳だ」

 「今はまだそっとしておくべきだって、支援センターの方も言っていたでしょう」

 「彼等は他人だよ。当たり障りのないことを言っているだけで、大樹のことを本気で考えてくれてはいない」

 汗ばんで不快なスーツを着たまま、父親は二階へ上がっていった。母親はキッチンへ行き、シチューを温め始めてから、大きなため息をついた。

 息子の部屋をノックする。返事はない。しかし、部屋の中からははっきりと物音が聞こえていた。

 「大樹、ちょっとだけ、話そう」

 当て付けでゲームの音量が上げられる。それに構わず、父親は今の生活を改めるよう説いた。努めて穏やかに、慎重に、遠回しに、閉じられたドアに向かって。

 「親はいつまでも生きてはいないんだよ。いつまでも大樹の面倒を見てはやれないんだよ」

 「うるさいんだよ! 死ね! 社畜の負け犬が!」暴言と地団駄が、閑静な住宅街の夜を引き裂いた。「こんな糞みたいな世界に勝手に子供を産み落としたお前ら親には責任があるだろうが! 貯金なり生命保険なりで俺の一生分の金を黙って用意すればいいんだよ、お前は!」

 それだけ言っても、暴言と地団駄は終わらなかった。隣家から漏れ出ていた笑い声はぴたりと止んでいた。

 「大樹。落ち着いてくれ。ご近所さんの迷惑になるから。父さん、一階に降りるから。もううるさく言わないから、落ち着いて」

 父親が一階へ駆け降りると、騒音は止んだ。

 意気消沈の体でダイニングの椅子に腰掛け、ジャケットを脱いだ。母親はシチューを器によそった。

 「私たちは、どこで間違ったのかな」

 父親が鉛のような声を吐き出して、母親は顔を両手で覆った。その時に息子は、山田大樹は、無表情でゲームに没頭していた。

 

 ゲーム、SNS、オナニー。それだけの三年間を大樹は過ごしていた。

 日光と外気から遮断し続けた部屋はダニと悪臭の楽園であり、怠惰の聖域だった。そこから大樹が出ることは、トイレで用を足すときと、気が向いて風呂に入るときと、小腹がすいてキッチンやらダイニングやらを漁るとき以外にはなかった。

 麻痺した危機感を抱えて生きている。両親に罵声を浴びせることが日常茶飯事になって、罪の意識はとうに消え去った。情にすらかびが生えて、大樹はもう、悲しい人間だった。

 

 両親が寝静まった深夜に、大樹は三週間ぶりのシャワーを浴びた。肩甲骨にかかるほど伸びた真っ黒な髪、顔の下半分を覆い隠す髭、不健康な脂肪を纏った体、それらが湯を吸い込んで一層と重苦しくなる。

 浴室の鏡に映ってしまう自分を、大樹は決して見なかった。

 シャンプーを洗い流していると、不意に、シャワーの音が消えた。湯を浴びる感触も同時に消え去る。目を開こうとした。しかし、視界が開けることはなかった。瞬間に、大樹は自分の体が細切れになっている感覚を覚えた。皮も肉も骨も臓器も神経も血も、体の全てが原子の大きさに分解される感覚。痛みはなく、不快なだけのそれ。

 すぐに意識も消え去って、大樹を構成する原子は光速を超える速度で宇宙を移動し、とある惑星へと行き着いた。

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