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 地獄の饗宴のような世界から抜け出し、居酒屋の外に出た。酔いが回っているせいか、あの異常な光景に目に焼きついているせいか、視界の色が妙に赤い。ベタついた血の赤。その赤。黒くて赤い。街灯に照らされた道を歩くと、夜道をスタスタと歩く若者新じゃが男爵芋ガタイのいいサラリーマンが互いにすれ違って行く。私は必死に腕のスイッチをONOFFを繰り返す。頭部を振り回すように顔と芋が残像を残しながら切り替わる。芋人芋顔芋頭。それでも人と芋がすれ違うことには変わりがなかった。小ぶりな達がじっとこちらを見ているようだった。


「み、見るな!」


 突然自分の口から叫び声が漏れた。どうにも自分が今地面に立てているような気がしない。逃げるように必死に夜道を走った。あの赤黒い血の残像は目に焼きついたまま。

 自分の頭がどうにかなってしまったのだろうか。助けてくれないか。誰か。


 気づくと自宅の扉の前に立っていた。「ただいま」と声を出そうとすると声が掠れていることに気づく。酒で焼けたのだったっけか。いつの間に喉がやられたのかも、すでにわからない。

 今自分が立っている世界が元の世界なのかもわからない。何か、今現実に戻ってきているのだという確信が、実感が、欲しい。ちゃんと無事、いつものように帰って来れているのだと。

 そうだ、芽衣子。

 リビングは電気がついていなく真っ暗だった。芽衣子どこだ。芽衣子。視界が揺れ、一気に重力をなくしたように目の前の景色が上にずれていく。体の力が抜ける。手が届きそうな適当な場所に手をかけると、目の前にあった冷蔵庫の扉に手がかかった。

 扉が静かに開く。冷気に包まれた中にひっそりと佇む芽衣子メイクイーンが、温かい目で私を見守ってくれていた。


「そんなところにいたのか、芽衣子。どうした? 寒いじゃないか」


 凍えそうな芽衣子メイクイーンを優しく手で包み、外にゆっくりと出してあげる。彼女の顔は冷たく、まるで死者のような気配さえする。彼女の小さな口が冷気を吐き出すように動いた。


『どうしたの湯浅君? そんな焦ったような顔をして。今日は研究で遅くなるんじゃなかったの?」

「そう、いや、違うんだ。ただ、うん、芽衣子と話したくなった。話を聞いてもらいたくて。怖くなったんだよ」

『一体どうしたの? 大丈夫。いつも話は聞いてあげるって言ってあげてるじゃない』


 芽衣子メイクイーンはいつにも増して優しい。さっきまでいた狂気の世界から私を日常の世界に手を差し伸べて救い出してくれる。彼女の優しい声が脳内に響くと同時に、私の中に罪悪感が生まれた。


「ごめんよ芽衣子。今日、僕は君を裏切ってしまったんだ」

『どういうこと? ゆっくりでいいから、説明して。聞いてあげるから』

「今日実は芽衣子に黙っていたことがあるんだ。研究で遅くなったんじゃなくて。違くて。そう、ごめん芽衣子。やっぱり君がいないと僕はダメになってしまうみたいだ」


 うまく言葉が出てこない。地獄から一心不乱に駆けてきた夜道の中で浴びた視線とは違い、今の芽衣子の視線はさらさらと冷たい。でも、どこまでも私を優しく包んでくれそうな眼差しは海のようにずっと懐が深かった。謝らなければいけないのに。黙って、ずっとその表情の深さに引き込まれたくなる。


『大丈夫よ。あなたは大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫』

「ああ、芽衣子」


 私はぎゅっと小さな彼女の頭を抱きしめた。


「な、何してるの?」


 声がした方向に頭を向けると、扉の傍にも芽衣子が立っていた。寝ていたのだろう、服装はパジャマ姿だ。頭にはジャガイモ人の顔が乗っかっている。なんだか滑稽な姿に笑ってしまう。芽衣子、なんだ、そこにもいたのか? 


「あれ、め、めめ、め芽衣子?」

「湯浅君、一体、何に話しかけてるの? それ、何?」


 頭をジャガイモ芽衣子と取り違えた人間が喋っている。


「あれ、顔はどうしたんだ、めめい芽衣子」

「いったい何を言っているの?」

『私はここよ。湯浅君』


 頭のないジャガイモ人間芽衣子メイクイーン芽衣子が同時に喋る。生首を落とされた死体にじゃがいもが乗っかり生き返って喋りかけてきたかのような光景に段々とこちらも頭を振り落としたくなってくる。アンパンマンみたいだね。どういうことなんだろう。チラチラと二つの芋を見比べる。


「ねえこっちを見てよ」

『ねえこっちを見てよ』


 二つの芽衣子が私に喋りかけてくる。二つの芽衣子が二つの目で私をじっと見つめている。私を憐れむような視線。やめてくれ。そんな目で見ないでくれ。やめてくれやめてくれ。

 私は逃げるように、メイクイーン首だけの芽衣子芽衣子顔なしのジャガイモ人間に投げつけ、家の外に駆け出した。後ろから「『待って』」と優しい声と叫び声が重なって聞こえた気がする。

 駅に向かい、ただひたすらに走った。道ゆくジャガイモがじっと見つめてくる。そんなジャガイモで私を見るな。そんなジャガイモで。

 と思うと同時にドンと何かにぶつかり、私は仰向けに転んでしまった。目がチカチカする。打った腰をさすりながら目を開けると、目の前にはゴツゴツした顔痛んだジャガイモの二人組ががこちらを覗き込んでいた。


「兄ちゃん、突然ぶつかってきて、なんなの?」


 ホクホクと茹で上がった芋酔ったように赤い顔がふらふらと喋っている。芋頭が喋っている? 俺に? 

 さっきまで恐怖していた滑稽な景色を改めて見つめ返すと、なんだか笑えてきた。


「ヘラヘラしてるんじゃなくて、まずは謝れよ、おい」


 もう一個の雑に皮が剥かれた芋頭髭の剃り残しの目立つ男が私の服の襟を掴み持ち上げた。グイグイと振り回す。思った以上に力が強い芋だ。活きがいい。採りたてだろうか?


「えー、兄ちゃん、俺たちのこと舐めてんの?」


 茹で上がった芋酔った男が俺の顔をペチンとはたいた。痛みがじんわりと口の中に広がる。血の味がした。口の中が切れたかもしれない。

 今の痛みでだいぶ頭がさっぱりしてきたようだった。だんだんと頭が冷静になり、じっと目の前の芋をよく観察できた。見れば見るほど活きのいいジャガイモ怒り狂った顔だ。きっと調理すれば美味しくなるんじゃないだろうか。そう。マッシュポテトとかどうだろうか。

 頭がだいぶクリアだった。ひたすらに駆けていて、きっと酸素が脳に行き届いてなかったのだろう。今は頭の中の痛みや痙攣もなく、肩も軽い。

 気分がいい、そんな気がする。そう、そういう時は料理でもしようそうしようそうしよう。

 まずは目の前の酔った男茹で上がった芋をすり潰すことにする。調理器具は……ないか。しょうがない。素手でまずはゴツん。まずは大きな破片になるように砕く。

 不格好につぶれた芋鼻血を出した男が地面に転がった。ボウルもなにもないからしょうがない。床でスリつぶことにしよう。もう一度手を振り下ろすとゴツんと音がなった。なかなか硬い。もういっちょと手を振り下ろし、グリグリとすり潰す。少しずつべちょべちょになってきていい感じだ。もっとだろうか。あんまり料理はしないから、感覚がわからないんだ。ごめんね。

 いい感じに仕上がってきたところで突然体が後ろに飛ばされて、殴りつけられた。起きあがろうとすると目の前にさっきの雑に皮が剥かれた芋驚いた表情の男がプルプルと震えている。どうしたんだい? 君の調理の番はもうちょっと待ってくれよ。


「何しやがんだぁ! てめえ!」


 声が聞こえ、腹や顔に痛みが走った。何が起こっているんだろう? 芋男に殴られているのか。芋に? というかなんだ、芋男って。

 遠くから、なぜか芽衣子の声が聞こえてきた気がする。耳も痛いな。痛い。目の前で激しく動く滑稽なジャガイモの踊りを見つめながら、目の前が徐々に赤色に染まっていくのが見えた。

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