第88話 仮初の平和

「ん……」


 慣れ親しんだベッドの感触と、これまた自分の身体に馴染んだ温かさに包まれて、ゆっくりと意識が眠りの底から浮かんで来る。


「……起きたのか? おはよう、アナ」


 目を開ければ、旦那様が蕩けそうな笑顔で私を見つめていた。


 ああ、また早起き合戦に負けてしまった様だ。ここの所連敗続きである。


 もうっ、旦那様の早起きさんめ!

 たまには私にも旦那様の寝顔を拝ませて下さいよ。


「……おはようございます」


 私が口を尖らせながらそう言うと、私が何を言いたいのか察知したらしい旦那様に、笑いながら頭を撫でられた。

 これをやられると文句が言えなくなるのだから、自分にも困ったものである。



「伯爵様、アナスタシア奥様、お目覚めでございますか?」


 軽く身支度を整えていると、控えめなノックの音と共に廊下から声が聞こえてきた。

 ダリアだ。

 私は旦那様に確認してからダリアに入室する様促した。


 ちなみに、長旅の疲れもあるだろうからと今日はマリーには休みを取って貰っている。

 昨日も邸に戻ってすぐにテキパキ働こうとするマリーをダリアとデズリーとアイリスでズルズル引き摺って退場させていた。


 ハミルトン伯爵家うちの優秀な侍女達は相変わらず仲良しである。

 良きかな良きかな。


「おはよう、ダリア。マリーはきちんと休んでいるかしら?」

「それが、今朝もいつも通りの時間に起きて来て奥様の為のカモミールティーの準備をしていたので、デズリーにつまみ出されていましたわ」


 ダリアがクスクス笑いながらそう答える。


 うーん、マリーもマーカスとはまた違った意味でのワーカホリックだな……。

 

 マーカスと言えば、昨日無事に邸に帰って来た旦那様を見て感極まったらしく、セバスチャンと二人でオイオイ泣き崩れていた。

 

 それを見たダリアの目がガンギマっていたのでどうしようかと思ったけど、今朝はいつも通りのダリアに戻った様で一安心だ。

 あのまま辺境へ殴り込みにでも行くのではないかと気が気じゃなかったよ。

 恋する乙女は恐ろしいのである。



 その後は、ハリスが用意してくれた美味しい朝食をいつも通りペロリと頂き、旦那様と一緒にコマローや精霊トリオとイルノを連れて中庭を散策する。


 ああ、平和だ……!!


 いや、もちろんこれが仮初の平和だという事は分かっているんだけどね。

 なにせ十日後には裁判が控えているのだ。


 普通は裁判、しかも国際裁判を起こすとなればもっと時間がかかるものだが、そこは流石の大国、アウストブルクの後ろ盾。

 あっという間に手筈を整えてくれた。


 正直、今回の様な件はスピード勝負なのだ。時間が経てば経つ程、旦那様が不貞を働いたなんていう不名誉な噂は広がるし、ウェスティン侯爵家も暗躍するだろう。



「坊ちゃま、アナスタシア奥様、こちらにいらっしゃいましたか!」


 中庭の散策の途中に東屋で一休みしていると、私達を探しに来たらしきセバスチャンが小走りでやってきた。珍しい。


「どうした、セバス?」


 あまり見かける事のない少し慌てた様子のセバスチャンを見て、旦那様も首を傾げる。


「それが、昨日お二人が戻られた事を知らせに王城へ使者を送っていたのですが、もう王城から返事が……」


 早っっっ!!


 以前、セレスティア王女殿下からお手紙を頂いた時、『フェアランブルに帰国したら是非知らせて欲しい』と書いてあったので昨日の内に使者を出しておいたんだけど……。

 レスポンス良すぎない?


「ま、まさか今日にも登城しろとか、王女殿下の方が伯爵邸にお見えになるとか、そんな事言わないわよね……?」


 私が恐る恐るそう尋ねると、セバスチャンがゆっくり首を横に振ったのでほっとする。


 良かった、いくら何でもそんな無茶言わないよね? まだ帰国した翌日だよ?


「王女殿下からの代理の方が、親書を持って本日の午後に邸を訪問したいそうなのです」


 やっぱり今日かい!!


 セバスチャンの返事を聞いて、心の中で思わず突っ込む。

 いやまぁ、手紙を受け取る位なら別に構わないのだけど、使者じゃなくて『代理の方』ってところが激しく引っかかる。


「その『代理の方』というのは?」


 私と同じ所に引っかかったらしく旦那様がそう尋ねると、セバスチャンは困った様に眉を下げてこう答えた。


「ルドビィング公爵家の、アウグスティン様が王女殿下の代理だそうです」


 ちょっ、お手紙届けに来る代理にしては大物が過ぎませんか王女殿下ー!?

 

「それはつまり、今日の午後にアウグスティン殿が邸に来られるという事か!?」


 流石の旦那様も驚きの声を上げている。


 そうだよね。普通に考えるとどう考えても非常識なんだけど……、自身の婚約者をこれほど急いで送り込んで来るという事は、ひょっとすると何か訳ありなのだろうか。


 ……裁判に関係する事とか?


 仕方ない。どのみち王家の代理でやって来る公爵家の人間を追い返すなんて事、出来る訳ないし。


「旦那様、もう来る者は仕方がありません。急いでお迎えする準備を整えましょう」


 私はそう言うと、東屋のベンチから優雅に立ち上がった。


 仮初の平和、ほんとに仮初だったよ!!

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