16. 断じて婚前交渉ではありませんのよ!?
アレッタ嬢が熱を出して倒れた。最北端の地から最南端へ行き、そして帰ってきたのだから、当然ではあった。
とはいえ、倒れた時は肝が冷えた。心臓を強く握られ、脳は真っ白になった。
『単なる疲労と環境の変化による風邪ですね。薬を飲んでちゃんと休んでいれば大丈夫でしょう』
宮廷医はそう言ったが……心配でしょうがない。ずっと側にいたかったが、公務が残っていたせいでジェームスに連れ戻された。
流行病じゃない。死に至るような病気ではない。頭ではわかっていても、思い出すのは両親が死んだ時で。
気がつけばアレッタ嬢の部屋のドアの前にいた。
夜の一時だぞ。見舞いの品も持たずに。馬鹿だ、俺は。
そう思い踵を返そうとした時だった。
「へいか……?」
ドアが開き、真っ赤な顔をしたアレッタ嬢が顔を出した。ネグリジェにストールと、完全なる寝巻き姿だ。
息が荒い、本当に熱が高いのだろう。それなのにここまで歩いて、ドアを開けて……。
言い終わるか終わらないかのうちに、服の裾を掴まれる。
「へいか、へいかですのぉ〜〜」
とにへらっと笑ったと思うと、俺にそのまま寄りかかるように気を失ってしまった。
すまない、と思いつつも、抱き上げて部屋に入り、ベッドまで運ぶ。
「ハァハァハァハァ……」
暑そうだ。水に浸した布などがないか探すが、すでにぬるくなってしまっている。何か冷たいもの……氷だ。他国だと氷は高いというが、雪国でよかった。氷室に行けばたくさんあるだろう。
汗で額にベッタリとついている前髪を払って、柔らかな髪を撫でてから氷室に向かった。
*
『アレッタ・フォーサイス嬢! お前は聖女、カトリーヌを傷つけた! よって、ここに婚約破棄を言い渡す!』
卒業パーティーの会場で、殿下が高らかに宣言しまして。聖女はクスクスと笑いながら、殿下に抱きついていらっしゃいます。
周囲の方々はざわつき、距離を取り。囲まれる形で、殿下と聖女、
『まあ……なんてこと』
『聖女様を傷つけるなんて』
『酷いわ』
先ほどまでの同情や興味の視線から一転し、悪意に変わったのを、身をもって感じました。
背中に嫌な汗が流れ落ちて。呼吸は浅くなり。
どうして、私がこのような目に遭わなければならないの?
けれど、私はアレッタ・フォーサイス公爵令嬢なのです。ここで怖がるなんて、矜持が許しませんの。
背筋を伸ばし、凛とその場に立って。震える手で律し、扇子をギュッと握りました。
『私は、手続きを踏まずに婚約者を奪った方の頬を一、二発ほど叩いただけですわ。私に「可哀想な負け犬」などと仰ったそこの殿下と抱きついている方の』
キッと聖女を睨みつけ、扇子で怖くて震えている口元を隠しました。
怖い……怖い……。
心臓の音がうるさくて。せめて、頭だけでも冷静に。スッと深呼吸をして。
そうよ、私はあなた方に浮気されたってどうでもいいの。勘違いされたら困るわ。
『別に王妃の座に興味はありませんの。婚約破棄、ご自由にどうぞ。ただし、正規の手続きを踏んでから』
私はただ、前王様に殿下と婚姻を結ぶよう、お願いされただけなのです。
寛容で朗らかでいらっしゃった、大好きな前王様との、約束だったからずっと付き従っていたのです。でなければ、こんな方と婚約なんて結ばなかった。
……申し訳ありません、前王様。
そうして踵を返し、家に帰ろうとした時、国王陛下がカツンと杖を鳴らされました。
驚いて振り向けば、
『聖女を傷つけるとはなんということだ。アレッタ・フォーサイス嬢、そなたには北の悪逆王の元へ嫁いでもらう』
と、事実上の有罪判決を受けました。しかも、判決は……。
この言葉に周囲はよりざわめきを増しまして。
『つまりは国外追放?』
『いいや、死刑だろう』
『いい気味だわ』
悪逆王への嫁入り。そんな……そんなのって……。
私に、死ねと言っているようなものじゃないの。浮気されて、陥れられて、ここまでされなくてはならないの?
怒りで泣きそうになる気持ちを抑えて、毅然として申し上げます。
『私は、これを罰だとは思いません。何も、悪いことはしておりませんから。一臣下として、謹んでお受けしますわ』
どうして……どうして……私がこんな目に遭わなければならないのでしょう?
優しい家族に囲まれて、未来の王妃としての仕事を果たし、公爵令嬢として日々精進していただけなのに。
*
「うう……うう……ひっく」
戻ってくると、アレッタ嬢は夢に魘され泣いていた。悪化しているようで、顔色は真っ青になっている。
とりあえずぬるい氷枕を変えた。今は暑いのだろうか、寒いのだろうか。やはり寒いのかもしれないと思い、新しくした氷枕をどかした。
君が泣くと、俺も泣きたくなる。
どうか、泣かないでくれ。俺が夢の中に入って、アレッタ嬢を悪夢から守れればいいのに。
俺は無力だ。ただ、涙を拭い、撫でることしかできない。
「わたぐじ……わるぐありまぜんの……」
アレッタ嬢の母君の手紙で、より詳細な事情を知った。これは、断罪された時の夢なのだろうか。忌まわしい、卑劣な、あの……。
「こわい……ざむい……だれか……」
力なく言うアレッタ嬢の手を握った。
俺がいる。アレッタ嬢の味方が、ここにいる。大丈夫だ、大丈夫だから。
思わず強く握りしめてしまったせいか、アレッタ嬢はパチリと目を覚ました。
「へい……か……?」
「あたたかい……」
そのまま腕を抱きしめられる。そして誘われるようにベッドの中へ。
……これは……一体……。
「すぅ……すぅ……」
しかし落ち着いたようで、呼吸は安定し、すやすやとアレッタ嬢はまた寝ている。
これはまずいのではないだろうか。
だが…………アレッタ嬢が夢に魘されないなら、それでいい。
*
「ふぇ!? ど、どうして陛下が私のベッドに!?」
「だ、断じて婚前交渉ではありませんのよ!?」
こ、婚前交渉!?
よかった、いつものアレッタ嬢だ。
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